あなぐらむ

その男、凶暴につきのあなぐらむのレビュー・感想・評価

その男、凶暴につき(1989年製作の映画)
1.0
日本映画専門チャンネルでやっていたので久々に観た。
つまらない。本当につまらない映画だ。「日本映画」においてもっとも過大評価されているのが北野武監督だろう。
ご存知の通り、当初は奥山和由×深作欣二となる筈だったものが、こういう事になってしまった。時代は異業種監督とその夥しい凡作が濫造されていた頃だ。劇場に足を運んではため息をつき、自分の選球眼の無さに落胆する。そういう日々だった。やくざものは極道だけ(山之内孝夫原作もあったが)、アクション映画はVHSへと主戦場を移した、そんな暗黒の時代。そこに北野武という男が監督として打って出た。

結果はどうかというと、映画にはなっていない。元々大甘だった野沢尚の脚本を枠組みだけ残して解体し(しかし野沢尚ってこういうケースがほんと多いよね)極めてドライな、日本的な情緒に訴えない、言ってしまえば無味乾燥な何かとして、本作は存在する。
ここにはその後の、突出した暴力とミニマリズムへと傾倒していく邦画の強い予兆が現れている。

極めて今日的なのは、本作にはディテールしかない、という事だ。物語が解体されて、細部の集積になっている。これは芸人としてのビートたけしの生理が「総体」を求めていないからだ。或いは所謂プログラム・ピクチュアとしての「邦画」を彼が嫌ったからとも言える。結果的にこれはデファクトスタンダードとなり、「シン・ゴジラ」も「べいびー・わるきゅーれ」も一切合財、そういった「もの」として映画は製作されてきた。部分部分のエッジが立つのに、総体としての映画が「物語ること」から避けるという事。そう、避けている。語ろうとして失敗するのではない。

一方で、動体の記録としての映画である事に、北野武は積極的だ。人が歩く。向こうから歩いてくる。ただ歩いているショットをずっと捉え続ける。そこに観客が勝手に意味を見出す。趣向を凝らした移動撮影は少ない。ただ歩いている。ただ殴っている。そういった行動の記録。けれども、刑事映画としての結構を決めようとはしない。追いかけた刑事はバットで逆襲され、パトカーはカッコ悪く右往左往し、いきなり現れた暗殺者を追いかけても疲れて走るのをやめてしまう。所謂「定石」を外すこういった行為描写こそが「お笑い」というものだろうが、そこがたけし自身のニヒリズムと相反しており、画を跳躍させない。

一連のこのたけしの「動くもの撮る」という行為は、新しい玩具を買ってもらった子供のそれと似ているところがあって、それが拳銃というプロップの扱いにも通じている。極めて映画的なこのプロップと戯れるたけしは本当に子供のようだ。刃物についても同種の「愉悦」をたけしは感じている。エンケンが刺される件り、たけし自身が白竜に襲われる件り(ここでは銃についても同種の「遊び」が試みられ、通行人が被害に遭う)、これらは映画的な欲求ではなく、たけし本人が「観たい」と思ったものを熟練のスタッフによって「実演」したものでしかない。故にカタルシスが無い。作中のエモーションと連動していない。だが、時代がそれを望んだのも確かなのだろう。ロープに振ったら帰ってくるプロレスの終わりである。

本作ではすべての人物が記号である為、キャストに演技を要していない。それは逆算してのビートたけしの「芝居の出来なさ」から編み出されたものであり、よって人物たちは抑揚を封じられており、演技論が適用されない。この辺りはこの時分の異業種監督たちの「演出の出来なさ」と同じものを自ら積極的に認めた格好だろう。歴戦の名脇役たちはルーティンワークしかさせてもらっていない。

80年代後半は、本当に「邦画は死んだ」と思う事が多かった。俺が知っている邦画はこの時期にみんな、死んでいった。今あるのは、奇しくも「日本映画」なのである。みんな「日本映画」と言う。どこか客観的な呼び名である。それは最近の映画では「我が国」と呼ばずに「この国」と呼ぶのに近しい。
北野武は今も「日本映画」を撮り続けている。