ニトー

俺たちに明日はないのニトーのレビュー・感想・評価

俺たちに明日はない(1967年製作の映画)
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観たことあると勝手に思っていたのですが、見直すつもりで観たら全く記憶になかったことに愕然とする。なんとも人の記憶というものは曖昧なものであることか。いや、私の記憶か。

ウィキには「銃に撃たれた人間が死ぬ姿をカット処理なしで撮影したこと」をはじめとして先駆け的な表現が多かったということなのですが、ラストの「死のバレエ」は今見てもすさまじいものがある。

ボニーとクライド二人の顔面アップの怒涛の連続カットバックからの一斉掃射による死にざま。確かにこれは、それまで描かれたドラマの終局としてまさに儚くも美しいと形容されるべきラストでしょう。

無慈悲な「THE END」がもたらす二人と観客の断絶も、エンドロールを長々と流さねばならない(それゆえに感傷や余韻に浸ってしまう)今の映画では難しいでしょうし。

拳銃という男根のメタファーに始まるこの映画が、その肥大化した姿としての機関銃の掃射によって終わるというのは因果応報的であるものの、しかしやはり悲しいものである。

インポテンツ(ていうか元の脚本ではバイセクシャルだったのでその名残らしいのですが)が暗喩されるクライドの、その代用物として虚飾の拳銃、さらにはそれが機関銃へと肥大していく居た堪れなさ。

クライドは自分の不能さ(あるいは世界から見た性的倒錯)を補うために見栄を張らなければならなかったのだろう。そうしなければボニーを繋ぎとめられないのだと、「男らしさ」という呪いに緊縛されて。ボニーが煽った(ボニーが拳銃を撫でる艶めかしさたるや)クライドの拳銃は、しかし当初は人に向けて発射されることはない。

さもありなん。所詮は自分の不能さを取り繕うためのものでしかなく、クライドは虎の威を借りるなんとやらでしかない。だから、ボニーと接触したときのような装ったスマートさはすぐに化けの皮が剝がれる。

ウェスタンのような強さ()を彼は持っていない。だからせいぜいこけおどしに空に発砲する程度だった。

わざわざ銀行が破産していたことをその銀行の管理者の口からボニーに言わせる情けなさこそが、おそらくは彼の本質なのでせう。はっきりとコミカルに描かれているし。
本質的にはクライドはロビン・フッドですらない。ただ臆病なだけなのではなかろうか。それが結果的にそう受け取られただけで。
それがモスの合流によってどんどん鍍金が剝がれていく。あそこまでモスに対して憤るのは(帽子でたたくシーンはちょっと笑ってしまう)、捕まることへの恐れもあったでしょうが、私にはむしろ自分の不能・無能さをボニーにさらされてしまうことへの虚栄心の反射のように映った。 

ボニーと出会わなければ、ああはならなかったはず。たしか、モスを最初に引き入れようとしたのもボニーだった気がするのですが、それを考えるとこれは一種のファムファタールでもあるといえるのかも。

 

グラサンのことやヘイズコードなど時代背景なども考えると色々と画期的なことをやっているということなんですが、そういうのを抜きにしても面白い。
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