Hopelessness

A.I.のHopelessnessのネタバレレビュー・内容・結末

A.I.(2001年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

監督はスピルバーグだが、原案はキューブリックによるものだそうだ。昨今なにかと話題のAIをタイトルにもつが、シンギュラリティや機械による人間の支配といったテイストはほとんどない。むしろ人間による機械の抑圧という印象のほうが強い。主人公がロボットなので当然と言えば当然であるが。

その主人公は子供型のロボットであるデイヴィッド。モニカを母として「愛するように」プログラミングされている点が他のロボットと特異な点である。つまりデイヴィッドは、人間がロボットに人間的精神を植え付けることができるか否かのテストケースなのである。
果たしてこのテストは成功しているのだろうか。デイヴィッドにプログラムされた愛は人間社会における愛と同様のものだろうか。以下ではこれを検討してみたい。

まず結論を端的に述べておけば、私の解釈ではノーである。デイヴィッドの母に対する反応の数々は、人間的な愛と呼べる段階になく、動物的な刷り込みと呼ぶほうがふさわしい。
というのもデイヴィッドの世界には、彼自身と母しか存在していないのである。デイヴィッドの行動原理は基本的にすべて母が自分にかまってくれるか、声をかけそばにいてくれるかどうかにかかっている。つまり、彼の世界はまさしくコンピュータ的な0/1信号の二値論理によって動いているのである。パラフレーズすれば、彼にとって良いことは母が自分のそばにいて関心を向けてくれる状態(つまり1)で、悪いことは母が自分に無関心な状態(つまり0)というように極めて単純で閉じた世界しか構成できていないのである。

人間の場合、こうした自分と母しかいない閉じた世界は、第三者が介入してくることによって存続不可能となる。わたしとあなた(母)しかいない世界から、第三者が登場する世界へと参入することによって、自らの世界に差異と分裂が持ち込まれる。これによって人間は社会成員となっていくのである。
しかし、デイヴィッドにはこの第三者は存在しない。本劇における彼の冒険は、母のそばに行くということが目的のすべてなのだ。結局のところ、彼はこの第三者を自分の世界に取り込むことができず、原理的に二値論理によって構成されており逃れられない。これがデイヴィッドの限界であり、どこまでいっても人間的精神を手に入れることができないロボットであることの証として物語全体に作用しているのである。

したがって、本劇の結末が彼にとってハッピーなのかアンハッピーなのかを問うことに意味はないのである。彼にプログラミングされた目的関数が条件付きで満たされたにすぎないのだから。
Hopelessness

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