Hopelessness

すばらしき映画音楽たちのHopelessnessのネタバレレビュー・内容・結末

すばらしき映画音楽たち(2016年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

映画を見るための映画、といったところ。
映画音楽が映画にもたらすインパクトについてのインタビューを素材にして、それらが一つの映画史として手際よく構成されており、そのアンサンブルは感動的でさえある。
ここでは、そのストーリーに解釈を加えることはせず、個人的に興味深かった点を取り上げ、そこから映画の外部の事柄へと応用してみたい。

取り上げるのは、映画の前半に紹介されるバーナード・ハーマンが音楽を手掛けたヒッチコック『サイコ』での有名なシャワーシーンについてである。
この場面を紹介したインタビュイーは、"The murder"という音楽がなければ、このシーンは全く怖くないと語り、我々は一瞬無音の殺人シーンを見る。確かに視覚情報のみだと、ナイフの動き、マリオンのリアクション、流れる血、そのどれもが作り物であることを実感してしまう。しかしひとたび音楽がつくと、この偽物の「リアル」がある種の「リアリティ」を獲得することを実感させられる。
つまり、我々は「リアル」としてカメラの向こうで行われている出来事をそのまま受け取ることはできない。むしろ様々な付加的な情報も拾い上げて、それらすべてを素材にして「リアリティ」を構成しているのだと改めて感じさせられる。

この音楽による表現の威力は、ヘイドン・ホワイト『メタヒストリー』以来盛んにおこなわれた、表象としての歴史記述という議論――言語を用いて書かれたものとしての歴史は、必ずしもその歴史的リアルを忠実に再現したものではなく、しばしば歴史家の立場に対応した多様性を持つ歴史的リアリティである――と符合する。

考えてみれば近年ますます、文章の上ではレトリック、映像の上では音楽・音響やCG、編集による加工によって巧妙に「リアル」が歪められ、創作されている。それは政治や歴史認識といった大きな問題のみならず、フェイクニュースやSNS上での発言・炎上といった近しいことにまで共通している現象なのではなかろうか。我々のもとに過剰なまでに流れてくるこうした歪んだリアルが、人々のイデオロギー的欲望と結びついて「リアリティ」として人々に享受されている――そしてそれはしばしば人々の分断を煽る――ことを映画音楽という観点から強く考えさせられる作品であった。
Hopelessness

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