Hopelessness

ジョーカーのHopelessnessのネタバレレビュー・内容・結末

ジョーカー(2019年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

「悪」はいかに生まれるか。アーサー(ホアキン・フェニックス)の置かれた状況や出来事に原因があり、それを深く辿っていけば深淵に真理が見つかる、というものでは全くない。
そう、電車内で二人の警官がピエロの仮面を剥いでも彼を見つけられなかったように、真理は仮面の下にはないのである。
ではどこに?仮面そのものに、である。

本作の鍵になっているのは「反復」である。物語を進めるトリガーには必ずこの反復が張り付いている。

例えば最初の殺害シーンに至るまでの経緯、これは、劇冒頭の楽器屋の看板を盗られた後の暴行の反復になっている。暴行の受け方など、明らかに同型になっていたはずだ。
とはいえ反復といっても、全く同じことが繰り返されることを意味するのではない。冒頭で加えられた暴力は、彼の中に拭い去れない沁みとなって残っているのである。
後に、マレー・フランクリン・ショーで彼はこの時の殺人を振り返り、その理由を彼らが音痴だったからと答える。話題の殺人犯は自分だと告白しておいて、この理由で嘘をつく必要があるだろうか。音痴だったからというのは、反復の中で前回の経験から溢れ出た部分なのであり、これが彼に引き金をひかせたのである。
なお、銃の引き金をひくことも、自宅での誤射の反復である。

このように本作の中で反復をイメージさせる描写は数多く存在し、むしろこの反復を伴った出来事こそが印象的なシーンとなっており、かなりの数をあげることができるだろう。

しかし、観ている者にとって最も印象的で衝撃的に感じるのは、彼が殺人を犯すという出来事ではなく、彼自身「ジョーカー」そのものに対してだろう。
だからこそ次のように言えるのではないか、「ジョーカーこそが反復である」と。

では彼は何の反復か、もっといえば誰の反復か。
ここで思い出したいのが、彼の笑いが常に他者(社会)と異なっていた点である。バーでノートにメモをとるシーンはその最たるものである。
そんな彼が、心から笑うことができたのはどこか。それは彼が制服を着て忍び込んだシアターで上映されていた、チャップリンの『モダン・タイムス』だった。
そう、彼はチャップリンの反復なのである。
マレー・フランクリン・ショーでジョーカーは、マレーのゲストを笑い物に仕立てるというスタイルを激烈に非難する。自分自身でもって笑いを作ろうとする彼は、やはり真の偉大な喜劇役者チャップリンの反復なのである。


最後にマルクスが残した有名な一節をひいておこう。
「歴史的な事件や人物は二度現れる。一度目は偉大な悲劇として、そして二度目は惨めな喜劇として」
Hopelessness

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