Naoto

レッツ・ロック・アゲイン!のNaotoのレビュー・感想・評価

4.3
人間が妥当な権利として自由を欲求し、それを享受することが阻害されたときに、人垣の中から時折音楽に似た咆哮が聞こえて来る。
世間ではそれをパンクロックと呼び習わす。

本作はそんなパンクロックのレジェンドであるジョーストラマーのドキュメンタリーだ。
クラッシュを解散して11年後、メスカレロスのセカンドアルバム「Global a Go-Go」発売のあたりを追っていく内容なのだが、とにかくジョーが喜びに満ち溢れている。
白い暴動を起こしたいんだ!と叫び倒していたあのジョーがアルバムが売れて欲しいからという理由でラジオ局に突撃したり、自ら書いたポップをそこら辺の人に配ったりと、およそ印象とは似ても似つかないようなことをしながらとにかく生の喜びに満ち溢れている。

この喜びは一体何であるのか。

やはりジョーの本質であるパンクロックという概念に迫ってみるのがいいかと思う。

パンクロックの欲求とは先に見た通り人間が妥当な権利として自由を得る事であった。
人間とは"ひと"の"あいだ"に生きるもの、
自由とは"自"らが物事の"由"を成している状態、と考えれば、
互いに影響し合い、されあう人間社会の中で、精神の能動性を高めるために活動できる権利。
そのような状態がパンクロックが求めているものなのであると思う。

クラッシュ時代のジョーはこうした権利を阻害されないためにひりつくような焦燥感に苛まれていたことと思う。
その行動の指針は常に"すべき"という形をとっていた。
彼は月に手を伸ばすべきだったのであり、
やるべきであったのでやるしかなかった。

それは精神的に能動性があってとても殊勝な心がけだと思うが、"すべき"という行動指針は、他の選択肢をすべきではなかったから消去法として"すべき"になってるので、能動的ではなく受動的。
つまりクラッシュ時代のジョーは精神は能動的だったが、行動は受動的だった。
だからジョーは"ひと"の"あいだ"にいることができなくなって、クラッシュの解散につながった。

翻って本作に収められているジョーの姿は"したい"からラジオ局に押しかけて行っているのであり、ポップを配っているのであり、音楽を鳴らしている。
全ての行動がそれそのものとして楽しくて仕方がない。

ここに至って、受動的な割合は精神的にも行動的にもほぼなくなり、"自"からが"由"を成している状態になる。
だからメスカレロスという仲間が出来て、"ひと"の"あいだ"にいることができる。

あの生の喜びに満ち溢れたジョーの表情は、パンクロッカーとして絶えず欲求してきたものをようやく勝ち取ったという感情の発露だったのではないだろうか。

こうした生の喜びを哲学者のスピノザはこんな風に言い表している。

"もろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむ事は賢者に相応しい"

(エチカ第4部定理45)

「Global a Go-Go」を聞き進めて最後にたどり着く曲「Minstrel Boy」に、僕は自灯明として煌めく賢者のようなジョーの精神を見る。
Naoto

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