Naoto

東京物語のNaotoのレビュー・感想・評価

東京物語(1953年製作の映画)
4.8
前レビューにいいねくださった方々ごめんなさい、再鑑賞してちょっとテンション上がってどこかに吐き出したいので再投稿します。

前回鑑賞した時は人と人との繋がりの中に人間らしさを見出し、今は昔と変わってしまったな〜と嘆いている作品なのだと思ったけど、今回再鑑賞してみて微妙にニュアンスが違っていることに気づいた。
この喪失の物語において、小津は無為自然に生きることによって生命の円環をなそうとしたのだと思う。

無為自然というと、ぼ〜っと何もしてない状態のように聞こえるが、もちろんそんなことでは無い。
それは、作"為"が""無"く、"自"ずから"然"りな状態。
なにも余計なことは考えず、ありのままで在ること。
何もしないをする、という表現が近いかもしれない。

何もしないをするとはどういうことなのか。

文字通り自然を見てみるとわかりやすい。

川を流れる水は滞りなく流れ、やがて海へと至る。
そして海は生命を育み、生命はまた新しい生命のサイクルを作っていく。

この間、すべての事象は作為的に行動しているわけでは無い。
自ずから然りな状態にただただ身を委ねているだけだ。
何もしていないことで何かをなしている。
つまり何もしないをしている。

翻って、人間にとって自然な状態とはどういう状態だろうか。

思うに、死は確実に自然な現象だ。

この文章を書いている今この瞬間にも確実に僕は死んでいっているし、どんな人間にも例外なくこれが当てはまる。

なので、人間にとっての無為自然とは即ち、死に対してなにもしないをする事。

そして本作は、そうした喪失の無為自然によって生命のサイクルを紡いでいるのだと思った。

ただただ人間の自然な姿(喪失)を正視し、受け止める。
一瞬ではなく、半永久的に。
そうすることによって人間は真に人間本性を取り戻す。
その光に照らされてまた別の人間が人間本性を取り戻す。
小津はその光の連鎖を見据えて喪失を描いているのだと思う。

ただそれは凄まじい苦しみを伴う。
例えば三島由紀夫は、
"無為の美しさを学び知るには覇者の闊達が要るのである。"
と言っている。

主人公周吉はあらゆる喪失に覇者の闊達を見せる。
思い描いた未来を喪失しても、己の半分を失っても。
無為自然である。

そしてもう一つ、精神力の他に時間がいる。
半永久的な無為自然状態を保つには、仕事に忙殺されていては仕方がない。
長男の幸一と長女の志げが批判的に描かれているのはこの点なのだと思う。
実際のところ、2人はかなり良い人間の様に見える。
熱海へのバカンスを手配したり、容体が悪化した患者のところへ飛んで行ったり。
喪失に対しても心から痛み入るが、時間がないので喪失に対して半永久的な無為自然状態が保てない。
小津にとってはそれは人間の自然な状態ではなく、光では無いのだ。

無為自然な周吉と無為自然ではない志げ&幸一、この中間に位置するのが紀子と京子。

京子はまだ喪失と向き合うとは何かを理解してないので、これからどちらに転んでもおかしくない。

紀子は夫を戦争で亡くしている。
そして自分のことを「ずるい女」と称している。
それは、亡くなった夫のことを忘れることが多くなっている、つまり喪失に対して無為自然では無くなっているのに、人間らしいふりをして生きてしまっているから。
ただ紀子はそんな自分に葛藤している。
喪失を受け入れて人間らしくありたい。

幸一&志げとの決定的な違いはここだ。
ずるかろうがなんだろうが人間に対しての諦めがない。
だから光がさす。

紀子にさした光とは周吉に譲ってもらった腕時計だ。

腕時計は周吉ととみに流れている時間を表す。
苦しみを伴うが、無為自然であり人間らしい時間だ。
それを紀子は大事そうに手のひらで握りしめる。
その瞬間こつこつと焔煌がわきたつ。

その様はまさしく、川から海へ、海から生命へと無限に生命のサイクルを刻んでいる自然の姿そのものだ。

老夫婦は無為自然になにもしないをすることによって生命のサイクルを紡いでいく。
また紀子も新しい生命に火を灯すのだろう。

人間とは松樹千年の翠である。
Naoto

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