自分のために作られた作品だと思った。
初めてバッハのゴルトベルク変奏曲やマタイ受難曲を聴いた時のように、初めて須賀敦子やダンテの筆に魅入った時のように、初めて山本耀司の服に袖を通した時のように、この作品は自分の魂の奥深いところで共鳴した。
3つ共鳴した点がある。
①反語としての無常
②信仰を持つということ
③遅滞するということ
まず①反語としての無常。
これを見るのに禅僧・良寛の句を引いてみる。
散る桜 残る桜も 散る桜
一見、咲いている桜も散ってしまうので全てが無常である。と言っているように見えるが、句の奥深くを覗いてみると聞こえ方が変わってくる。
桜は毎年滞りなく、咲いては散り、咲いては散りを繰り返す。
すると残る桜に散る桜を見たように、散る桜には咲く桜を見るようになってくる。
無常とは創造との円環関係なのだ。
良寛は無常で句を留めるからこそ次を想像させる。
そして想像するということは内面的に行うことだ。
内面的なことは、外面的なこと(物質、時間)を伴わないので、散る桜に咲く桜を想像すると言うことは、内的に無限を味わうことと言って良い。
そして人間は桜のように散っていく。
思いも、命も、昨日まで満開だと思っていたのが嘘のようにだ。
例えば本作では人生で初めて抱いた慕情も吹く風にすぐ流されそうになり、何のことはなくころっと心臓は脈を打たなくなる。
それはまるでゴルトベルク変奏曲の完全な調和のように、当たり前のこととして起こる。
だからこそ、次に咲く桜を想像させる。
なので、本作の無常さは反語として永遠の創造を感じさせる。
②信仰を持つということ
本作では信仰を超えた愛が描かれる。
信仰とはなんなのか、なぜ信仰を超えれたのか。
それは①と関連してくる。
まず、信仰は神に対して捧げられる。
神は無から有を作り出す存在だ。
なので、時間、物質など、人間が理解している理の外側に存在していると考えるのが妥当だと思う。
そして、散る桜に咲く桜を見る事は内面的な精神の動きだったので、時間や物質は伴わない。
なので、人間は無限の創造を感じる時、内面に神を宿す。
言語は人間の理の内側なので、神は言葉として発したら死ぬ。
神は心の奥底でしか生きない。
つまり、本質的には信仰とは個人の域を出る物ではないのだと思う。
祈ることとは潜ることである。
ここが、本作の信仰の在り方として素晴らしいと思った。
本作における信仰は外側に出ていかない。
だから宗教による衝突がなく、超えていく。
内側で無限の創造を感じ、生命に満ち溢れた状態で人と接する。
それを愛と呼ぶのだと思った。
本在的な状態の信仰はあらゆる障害を超えて愛を感じれるので、信仰を持って生きる事は凄まじく大事。
③遅滞すること
①も②もゆっくりと時間をかけることによってしか実現できない。
なので、人間は自分とゆっくり真剣に向き合う必要がある。人とゆっくり真剣に向き合う必要がある。
本作は音楽コンクールのお話だが、開催されるまでの出来事に力が入れられている。
一つ一つの事柄、一人一人と人間、一日一日の出来事、それら全てにゆっくりと向き合う。
言葉も無くなるほどの時間をかけて向き合ったからこそひょっこり顔を出すのが②であり、愛だ。
例えばそれはドビュッシーが奏でた月明かりの皓皓(こうこう)。
恬と空に佇む。
それは遅滞する爛漫である。
その世界にたどり着いた時、散る桜は咲く桜へと形を変えるのである。