Naoto

桜桃の味のNaotoのレビュー・感想・評価

桜桃の味(1997年製作の映画)
4.5
自殺志願者の主人公バディが自殺の手伝いをしてくれる人を探す物語。

ただ車を走らせて、そこら辺の人に話しかけて話を持ちかけては断られる。
バディは何故悩んでいるのか、そして何故死にたいのかを全く明かさない。
それは自分の中にしか存在しない死にたいという情動を言葉によってピン留めされないためなのだと思う。
そしてそれはバディが小さな小さな悩みを抱いていた時から言葉によるピン留めによって不正確に捉えられることを恐れてひた隠しにするうちにいろんな観念が連結していって雪だるま式に大きくなっていった情動であるのだと思う。

情動には元来意味などはなく直感しかない。
楽しいという直感があるのであり、悲しいという直感がある。
ただそれを生活の便宜上、
〇〇だから楽しい、とか、
〇〇だから悲しい、
というような、〇〇という観念を連結させるのだと思う。
そこには様々な観念が後からとってつけられる。
だからほんの些細なことでも気づけば死活の悩みにつながってくる。
言葉に溢れる世界にあるからバディは死にたくなる。

バディと違って孔子は四十にして不惑に至ったと言う。
全く迷うところが全く無いのであれば無であるはずなのに孔子は不と表現した。
何故孔子は"無"惑ではなく"不"惑と言ったのだろうか。

それは、迷いは存在しているが、迷いに自己を決定されていないというニュアンスを表現しているのでは無いかと思う。

例えば、
AかBという選択肢を選ばなければいけないとする。
迷いに観念が連結する心理状態だとすると(言葉の世界)どちらかを選択する際に、ああなったらどうしようとかこうなったらどうしようと考える。
結果、選択は迷いに決定されている。

対して不惑の状態であれば迷いは存在しているがそこに観念が連結しない。
迷いは迷いとしてだけ存在している。
そこには観念が連結しないので言葉がない。
迷いそのものと自己の境目が限りなく薄くなる感覚といえば少し近いかもしれない。
迷いそのものとして言葉を持たない感覚の人間が観念を連結させて迷おうとするなんてことは不可解な話だ。

だから不惑には迷いは存在するが、迷いそのものであるがために選択は迷いに決定されない。

とどのつまり人は迷いを断つことは絶対にできない。
ただ、迷いに観念を連結させる作業は断つことができのではないかと思う。

事物をそれそのものとしてあるがまま直感すること。
そうした視座を獲得できた時にのみ世界は色彩を増す。

吹き抜ける風は自分が風であることも知らずに風であり、風が身を運ぶ地の果ては自分が地の果てであることも知らずに地の果てである。
地の果てに咲く花はあるがままに咲いている。
そして自己をそれそのものとして自己であるこれらの世界に置き直すこと。

全て美しい世界は不惑で成り立った世界だ。
Naoto

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