Naoto

フェリーニのアマルコルドのNaotoのレビュー・感想・評価

フェリーニのアマルコルド(1974年製作の映画)
5.0
再々鑑賞。

実現できるかできないかは度外視して、穴が開通するまで地球を下に掘り続けていく人間がいたとする。
来る日も来る日も暗い穴を掘り進め、下部マントルを越え外殻を通って内核へと至る。
そして内核を通過すると今まではひたすらに下降していたその人は、地球の逆半球の内核から下部のマントルへ、そして地表へと上昇していくこととなる。
穴を掘り続けるうちに視覚の暗順応の作用によって、坑道のシミひとつすら見えるようになる程、夜目が効くようになったその人にとって、穴が開通した時に浴びる光はどれほど煌めいて見えるだろうか。
オリーブの林のざわめきは生命の喜びを伝え、さんざめく地中海の海面はこの上なく淋漓として見えるだろう。

記憶を辿って精神の深みを掘り進めていく作業もこれと同じだ。

「甘い生活」の頃のフェリーニは霊魂の暗闇とでも言うような暗い退廃の世界に住んでいた。
そして「8 1/2」でフェリーニの思索のベクトルは自己へと向かっていく。
散りばめられた記憶のかけらを拾い集めながら、徐々に徐々に、暗い坑道を進む。

「ローマ」を作ったあたりでは既に半球は超えていたのではないかと思う。

坑道を越えて地表に出るには、記憶という立て縦軸を、知性という横軸との交点に見出さなければならない。
知性を使って記憶を人の形にしっかり肉付けをする。
それが坑道を抜けるために必要な、精神の錬磨というものだ。
そして精神の錬磨がないところには魂などは何もありはしない。

本作に舞う綿毛にはそうした内面の激動がある。
言語を超えて、しっかりと誰の精神世界にも肉薄してくる1人の坑夫の姿が綿毛の影に確実に存在している。

暗闇の中を抜けた魂は、例えば緻密に作り上げられたカテドラルの様な絢爛な輝きを放つことはなくても、岬に聳えて静かに海のさざなみを見つめる灯台のように、静かに脈を打って屹立している。
そして灯台のやさしい灯りは、坑道を行く者たちの、暗闇に慣れてしまった視覚の機能を徐々に呼び覚まし、明順応させていく。

私は覚えている、確信に満ちたパースペクティブだ。

遥か遠い地平に霧となって消えていった日々の記憶を、自分の言語に翻訳して滔々と語れる作家の、なんと信頼を寄せられることか。
Naoto

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