ニトー

ものすごくうるさくて、ありえないほど近いのニトーのレビュー・感想・評価

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浸りすぎ。「語る」に落ちた映画。

伝えたいことはわかるしそこに共感する部分もないわけではないのですが、どうも押しつけがましいというか「バンブルビー」にも似た厭味ったらしさが。
3.11の当時の「絆」とか「がんばろう」といったたぐいの無理やり前を向かせようとする煽動じみていて。「さあ、みんなそれぞれ辛い思いをしているのだから共感しあって互いに理解しあいましょう」と。

はっきりって余計なお世話なんですよね。

この映画はオスカーという少年のナラティブ(そのものと、それによる開放・救済)と他者との共感というものがあるわけですが、母子の共感・悲しみの共有がクライマックスに持ってこられていることからも明らかなように、問題はこの映画で描かれるナラティブが共感という着地点を絶対的前提としていることにある。

ナラティブというのはメンタルケアの場面において重要なことではあるのですが、一方でそれを強要するような曝露療法的なものは実のところトラウマ体験をしたものへの負担が大きいということも証明されていたりするわけで。
そもそもナラティブと共感というのは必ずしも一緒くたにできるものではないでしょう。
ナラティブというのは、語ることそのものに意味があり、その先に何を求めるかというのはそれぞれによって異なるでしょう。赦しかもしれないし罰(まあこれも赦しに与するかもですが)かもしれないし、それこそ共感かもしれない。ただ、誰かに語るだけで救われるという人もあるでしょう。自分語りというのは、そういうことですから。

聴き手という他者を希求しながらも、徹底して自己の心理的な葛藤の解決を目的としている、ただでさえ本来的・本質的にエゴイスティックな作用を内在する「ナラティブ」を、オスカーのための「共感・共有」に絶対化したことで、さらにエゴイズムを肥大化させ「共感・共有」という他者との相互理解が必要な目的との間で決定的な断絶を生んでしまっているのではないでしょうか。この映画は。


オスカーやリンダに共感を示さない人もいるにはいて、彼らを門前払いするブラック(苗字)さんもいるのですが、そういう人たちは監督から邪険にされているのか掘り下げられることはない。回想でちょろっと触れられる程度だったり、オスカーからパパラッチされる人すらいたりする始末。描かれるだけまだマシなのかもしれませんが。

このことからもわかるように、前述のような「共感・共有」というどうしようもなく他者の存在を受容しなければならない命題に対して、「共感しようZE!マジ9.11辛かったし!みんな大事な人を失って傷ついてっしょ!ね!」と押しつけがましく行動してくる自分本位≒他者への無関心を作り手が気づかなかったことにこの映画の退屈さはある。

それこそ、病的なまでのACのコマーシャルが流れていた「3.11」当時の日本の空気そのもの。ここ2,3年でようやくそれが顧慮されるようなメディアが表に出てきているわけですが、要するに「こっちの許可も取らずに何勝手に共感しようとしてきてんだ」という話である。

大体ね、子供という免罪符(アスペルガー云々というのもその援用にしか思えない)を使って他者を振り回してるようにしか見えないんですよ、これ。嫌がってる相手の写真を撮るとかね。
一応、おじいちゃんに謝意を示す(ここらへんは素の子供っぽい感じが出てて好きなんですが)演出があったりはするのだけれど、でもそれはおじいちゃんに対するものというよりはバツが悪いからということじゃないんですか、ええ?

無能を自覚しているがゆえに他者に迷惑をかけまいと引きこもる自分のような人間からすると、無自覚なオスカーの行動がほかの人に比べて余計に腹立たしいというのもあるんですけど。


まあ、オスカーくんが幸せならそれでいいんじゃないでしょうか。この映画はすべてオスカーくんのためにあるので。
私のような臆病者なヒッキーはお呼びではないのです。


サンドラ・ブロックがオフィスの窓越しにツインタワーを見やるとき、タワーが歪んで見えるあの演出とか好きなシーンもあるんですけどね。


それにしても、この映画の日本公開が3.11から一年も経っていない時期というのがなんとも言えない悍ましさがある。
ニトー

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