Fitzcarraldo

ソーシャル・ネットワークのFitzcarraldoのレビュー・感想・評価

ソーシャル・ネットワーク(2010年製作の映画)
3.5
第83回アカデミー賞(2011)編集賞・作曲賞・脚色賞の3部門受賞作品で監督は「フィンチャー前」と「フィンチャー後」と俳優人生の分岐点にもなるほどの徹底した演出をするデヴィッド・フィンチャー。

ナップスターの創始者ショーン・パーカーを演じたジャスティン・ティンバーレイクが語る。

「88回もテイクを繰り返していたら、ふつうはめまいが起こったりして、自分が何をしているのかわからなくなる。でもこの現場では、監督の異様な集中力によって僕ら演技者が別の次元に持っていかれる感じ。90回テイクを重ねた一日を終えて、心身ともに消耗しているはずなのに、安眠できたのは不思議だった」
 
ベン・メズリック著『facebook 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男』を原作としてアーロン・ソーキンが脚色。

脚本家のアーロン・ソーキンは語る。

「約100回のテイクを撮り終えたときは、午前3時になっていたはずだ」

ザッカーバーグを演じたジェシー・アイゼンバーグは語る。

「100回というのは大げさで、たぶん90回くらいだったと思う。でも、飽きるなんてことはなかった。同じキャラクターで、何度も違うアプローチを試みるなんて、役者にとってはむしろいい経験だよ。アーロン・ソーキンが書いた面白いセリフは、90回以上ものテイクでも表現を変えることができるわけだから」

ウソでしょ!?そんな引き出しあるの?90変化⁉
そんなパターンないでしょ⁉表現を変えるというよりも演技のクセや、各々の役者が拵えてくるイメージを崩すことがフィンチャーの狙いだろう…

何度やっても自分が拵えてきた凝り固まったイメージから脱却できない役者を多く知っている。これは不思議なことで本人の自覚がないからまた困るのだ。

先輩の芝居の稽古に付き合った時も…何度やっても同じ。もっとこう…と後輩ながら助言したり、動画に撮って本人に見せても…全く変わらない。どうしても芝居がかる。90回もテイクを重ねれば治るのか?この時は確かに90回もやっていないが、短いシーンを5時間くらいは付き合った…でもオレから見ても稽古1発目の芝居と、これで最後にしようと稽古ラストの芝居と変化があったかと言えば…残念ながら全くない。

これは頭の中でガッチガチにイメージを作り上げてしまって、そのイメージに「前へならえ」することしかできないのだ。

恐らく、90回やろうが100回やろうが無理なものは無理だと思う…

芝居してない普段の会話の時と、芝居の台詞を読む時と、なぜあんなにも変わってしまうのか?普段の通り台詞を読むことができないのだ。台詞になると途端に芝居がかる。先輩だから、なかなかハッキリ言えなかったが、どうにかその芝居がかる癖を取ろうと、あの手この手で誘導するのだが…無理だった。単純に回数を重ねればいいということでもない。

オレが後輩だからなのか…先輩も下に見ているのか…これはセンスなのか…その先輩は日本のテレビドラマが好きというのもあるが、持論として、日本人の役者なんだから洋モノを見る必要がないと自国のモノしか見ない。だから自分の頭の中のイメージも、いわゆる日本の役者が演技してます!というわかりやすい芝居がかったイメージから払拭できない。

この現象は子役にも多い。それは演技経験のない素人のママが監督気分でテレビドラマの見様見真似で我が子に演出するから起こる。子どもはママの言われた通りオウム返しでロボットのように繰り返す。その子らしさというものが消えてしまい、みな同じになってしまう。この稚拙さは親の乏しいイメージと、ママの描いたイメージからの逸脱を許さない強固に抑え込んだ演出により決定的となってしまう。もうこうなると、何度やっても変わることはない。

北野武は何度やっても同じだからダメなら背中向かせちゃう、その方が早い。みたいな発言をどこかでしていたと思うが、フィンチャーの粘りの演出とは対称的。この粘りは相米慎二の系譜か…回数を重ねれば、どんな人でも芝居がかったものが取れるのか?もともとセンスのある人で
ないと100回やったあとに最終的に背中向かせるしか方法がないような…

なのでキャスティングが大事になる。

頑固なイメージを崩せないような人は選んではならない。どんな台詞であろうと日常会話と等しく話せることが大前提。それだけで、その人なりの個性がキャラクターに宿る。トレンディドラマのイメージでやられてしまうと、それは誰がやっても同じ失われた個性の人物になってしまう。
そうなると全く面白いものにならない。

まーどのみち潤沢な資金がない邦画界においては90回も、100回も、同じシーンをやることは無理なんだろうが…

これだけ当たり前に何度も何度も回数を重ねることが普通であるならば、役者にとっては余計な緊張がなくなって自然とキャラクターと同化できるのであろうが、逆に新鮮さが全くなくなってしまいリアクションを取ることにも飽き飽きして嘘くさくならないのかと…別な問題が浮上すると思うのだが…いい按配というのがあるのか…それは演出してみないと何とも言えない。

本作にはGAFAMの一翼を担うまでに至る一人の若者の起業の過程を、How to本を読むかのように何か参考にすべきところがあれば…と思ったのだが次元が違い過ぎて参考にならん。もう最初から最強のプログラミングの申し子ではないか…しかもルーニー・マーラーと付き合えてた時点で最強やないか…

原作者も脚本家も、マーク・ザッカーバーグには取材拒否されてるし、本人も事実と違うと公式に発言しているから真相は不明だし、闘っているフィールドが違いすぎて参考にもならんし、そもそもアタマの出来が違いすぎて自信喪失する…起業するためには如何なることも想定せねばならない厳しい現実を突きつけられた。

日本人の約9割がサラリーマンだという土壌では起業家が生まれにくいのも納得である。そして皆と同じことをしていることで、より安心感を得るのが日本の国民感情なのか…

もう雇われの身には辟易した。
マーク・ザッカーバーグよろしく訴訟上等!精神で起業に向けて誰かのアイデアをパクリたいと思う…
Fitzcarraldo

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