翼

トゥルーマン・ショーの翼のネタバレレビュー・内容・結末

トゥルーマン・ショー(1998年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

「おはよう!会えなかった時のために、こんにちはこんばんはおやすみ!」

いかにもTVショー的なキャッチーなご挨拶。これを彼が終劇の言葉に選ぶ。彼という人間性が放った言葉なのか、人生のどこかでプロデューサーから与えられた言葉なのか、それは本作では描かれない。けれど、彼にとってはあの人生は本物の人生で、彼が選んだ言葉には演出や嘘偽りはない。優しくて献身的で好奇心の強い彼の人生だからこそ、TVショーだからではなく多くの人が支持し彼の助けになりたいと、彼に良き人生を送ってもらいたいからと固唾を飲んで見守っていたのだ。だからこそ、彼の脱出劇には歓声が上がったのだ。

私が10代の頃の初見の感想はこんな感じ。
私は、この物語の終劇の言葉はトゥルーマンの「おはよう!会えなかった時のために〜〜」だと記憶していた。真実を突きつけられた彼だが、挫けずにいつもの言葉を使い、明るく世界に飛び出すエンディングだったと。だが違った。20年ほど経ち、改めて気がついた。トゥルーマン・ショーの終劇の台詞は、視聴者の警備員の男だった。
「ああ終わっちまったよ。リモコンとってくれ、他のチャンネルにしよう。」
理想を並べ美しい言葉を選び見事に幕を閉じた後にこの台詞を持ってくるセンス。この監督だからこそトゥルーマン・ショーは人々の心に残り語り継がれているのだろうと再認識した。

プロデューサーが視聴者からの質問にこう答える。「彼の人生を創ることに罪悪感はないのですか?」「多くの場合、与えられた人生は居心地良く豊かなのだ。」そこでカメラが切り替わり、仕事を疎かにピザをほうばりながらトゥルーマン・ショーを観る警備員が映される。「お前のことだよ!」と我々は怠惰な警備員を笑うだろう。そう意図して撮られている。だが同時に、その男を画面越しに嘲笑する我々は違うのだろうか?この惨めな姿を誰かが嘲笑しているのではないだろうか。そこに言及しない底意地の悪さが『トゥルーマン・ショー』という映画の魅力と言える。



余談だが、この映画は私の映画人生において最も重要な体験の一つをもたらしてくれた特別な作品である。
この映画と出会う前の少年期、私は本作の脚本と全く同じような妄想を抱えていた。
自分の人生が誰かに作られたものである可能性は捨てきれない。自分以外全員が役者ではないと証明できないものだろうか、自分の生活圏の外は舞台裏のように作り込まれていないのではないか、テレビで見る遠い国や宇宙は存在しないのではないだろうか…。
今思えば哲学を拗らせた厨二病に他ならないが、当時はこの妄想が膨らめば膨らむほど、仮説を否定しきれない事態に胸が苦しくなっていた。この重大な気付きを明かすことは人生に大きな影響を及ぼしてしまうのではないか。世界で私だけが真実に辿り着いてしまったのではないか。いや、大人が気付かないはずはない、むしろ私が気付いてしまったのは何かのバグなのではないか。だとしたらバグとなった自分はこのまま何事もなく人生を続けていいものだろうか…。
当時の親友にこの想いを打ち明けたことがある。彼はこう言った「そんな心配はいらない。俺は役者じゃないし、俺が違うと言うなら信じられるだろう?」
当時はその言葉に変に納得し、救われ、溜飲が下がることでその後の人生を楽しく過ごすことができた。その数年後、この映画と出会い衝撃を受ける。自分が考えたことと同じ仮説にたどり着いた大人がおり、映画まで作ってしまった!しかもこの衝撃作を多くの人が観てこの仮説に触れているはずなのに、大きなニュースにならない。天地がひっくり返るほどのコペルニクス級の気付きなのに!
思えばこの衝撃が私の映画熱に火をつけ、生涯1000レビューの目標に向かう人生の足掛かりとなった。ここで言う「衝撃」とは、本作の脚本や演出に留まらない。この問題作を数多の作品の一つとして享受している世の中に対する、ある種の絶望。または、この衝撃を知らない人がまだ大勢いるという希望。ならば広く報せたい、その人々と語り合いたい。それが私の映画好きの根源にある体験であると後々気がつく。
トゥルーマン・ショーは私の映画人生における特別な作品。
心の額縁に納め、いつまでも愛でていたい作品である。
翼