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『MOMENT』に投稿された感想・評価

矢吹
3.9
いつかなんかの公式のサイトで「75分間画面の四隅までアイディアの洪水」みたいなキャッチを見たはずで、編集がさぞおもろい伝説ポップアートぐらいのテンションで楽しむつもりだったのだけど、
当然、その愉快痛快なデザインとビジュアルを縦横無尽に発射し続けるストーリーテリングのテンポもとんでもなく。
そして、最後にまんまと嵌められる。

例えば、8ミリフィルムを使って、できることがあるのなら、それを全てやらなきゃいけないって思うと、このラストに持ってかれるのもそういうことなのだ。
だから、
「でもやらなきゃいけねえ」ってニュアンスのセリフがある。あるのだけど、その選択と思いは、はたして爆弾魔の彼だけの言葉なのか、って話。そうじゃねえだろって。
と思ってたら、
爆弾魔役は、手塚眞さんらしい。
じゃあ、そうってことでいいか。
その熱と、使命。
あったはず。
ご本人が、プロにできないことを全部やってやろうって思ってたとも言っていたし。
魂が物理的にも8ミリに乗っかって、届く。

都市の一角大爆破。心臓に悪い。
ダッシュ一閃、ガーン、ワンカットの人混み探し、ミュージカル、切られた画面と、ハートカット、スケボー、小さい廊下、
音はズレていいし、
カットとテイクが入ってもいい、
手紙の問答でフィルムがバチンバチンと落ちてもいいし、マンガ脚本が燃ゆ。

悪魔の十字架、トンカチ、潜水艦スコープ、帽子、などなど小道具は突如どこから何が出てきてもいいのだ。
映画は現実よりも奇なりだから。

なによりも、ポッキーちゃんが300万点。
ポッキーちゃんのダンスの振る舞い
照れたような仕草
全ての瞬間の、目と歯が激マブです。
田舎、地方、千葉、埼玉などで素敵に育った女の子というかは、
江戸川区、板橋区あたりで素敵に育った女の子と言う感じが、たまらんですね。
矢野ひろみさんのご出身は知らないけれど。

ついでにマジ謝罪。
訳がありありとあって、上映の途中から映画館に入ってしまいました。
これは本当に人生で初だとの弁明だけはさせてください。
今まで、遺憾にも開始に間に合わず上映が始まっている映画は、自分にも周りの人にも悪いから、潔く諦めてきたのだけど、
今作だけはマナー違反を犯してでも、見ないといけないと思った。もしかしたら、もう俺の一生じゃ見れないかも知らないし、後悔するんじゃねえかと。あながちガチで。
そんな機会と映画は他にもたっぷりたっぷりあるし、何度もなんやかんややり過ごしてきているけどさ。
ちなみに、今回はデジタルリマスター版の世界初上映であったとの話。
そして、11月にまた京都でやるらしい。
デジタルリマスターが爆誕したわけだから、
この感じだとこれから、ちょこちょこ上映機会が増えるんだろうと思いますです。
結局、そん時はちゃんと見に行きますし、どこかでお会いできたら幸いです。

だからこんな文字の羅列は端から何の意味もないのと言われても仕方ないのだけれど、
お詫びのアフタートークかいつまみトリビア
(トンデモ意訳)

劇中劇の「アナーキストの挽歌」のような
暗いトーンの映画がおおかった当時、
マンガみたいな映画を撮ろうと意気込んだ。
そして、
かつてマンガに映画を持ち込んだ男に、
映画にマンガを持ち込むぜ。と言ったところ、
俺は昔の男か。と言われたらしい。
その男、手塚治虫につき。

手塚眞氏が絵コンテどころではなく、漫画を書き上げてから、そのまんまを再現するべく撮影した。

高三の時に脚本を一晩で書き上げて、
大学受かったら撮るぞって、仲間に言って、撮った。
高一か高二の、知り合い伝いの矢野ひろみさんをキャスティング。

部屋も火事も喫茶店(多分)も、手塚治虫の家。

たみおくん役も、とこまかず?何某という俳優がクレジットされているが、手塚眞氏が一人二役でやっている。

自主映画を撮る学生に、当時のプロの大人たちは非常に優しく協力的だったと。
大林宣彦、鈴木清順などに関する具体的なキャスティングの話はなかったけれど。

雑誌のぴあは、本社丸ごと、映画を愛する人たちのコミュニティとなっていた。
それを司会進行の社員の方が、サラッと「梁山泊」と端的に言っていて、かなり良かった。

すべての映画とそれを作った人たちに。
手塚治虫は映画の手法(遠近法)を漫画に取り入れたが、手塚眞は反対に漫画の手法を映画に取り入れたと言えるのかもしれない。
漫画とは静止画を連続配置して読者が能動的に「時間」を生成するものであるとすれば、その漫画の独自性である"コマ"をそのまま映像化しているような印象がある。そのため、映像の各所に時間の飛躍がある。
少女漫画的人物設定に加え、ギャグ漫画的コメディ、アクション、突然のミュージカルとごった煮でたしかにとっ散らかっている感は否めないが、作品に若さと初期衝動が迸っていると同時に、合間にギャグを入れずにはいられない父と共通する作風も感じられる。天才を父に持ちながら、オリジナルな表現を模索しようとする若き日の彼には創作者として共感できるものがある。
✔️🔸『MOMENT』🔸(3.1)『あの頃』(3.4)🔸『PEAK END』(4.4)▶️▶️

 『MOMENT』を、 40余年前に観た時は、作者の高校生時代の作『FANTASTIC⭐ PARTY 』(当時の評点を換算すると、3.7から3.8くらいか、要は凄い‼)があまりに素晴らしかったので、やや肩透かしを喰らった。その確認をしたかった。『FA~』が内側から映画そのものを体現していたのに対し、『MO~』は、映画的と言われる、華々しさや逆の衒いのなさがひたすら追われ、尽きない喜びを並べた作であり、その表面的な照れ臭いまでの陽性ぶりは人気を端から確約されたような作であったのだ。主役脇役関係ない仮装当たり前の自己アピール、主役の可愛さの疑いなき自明さ、劇中劇的あり方とミュージカル世界取り入れ開花、コマ撮り速い動きや足下フォローら映画に限られた動感表現の普通、出演者総員大物量+多彩感、花火やミニチュアらの挿入ストレート効果、表面他愛ないやり取りらを本当に死や運が現実を裏切りまた弄ぶ展開の異様さ・裏切り、様々なゲストスターカット挿入の贅沢さ、劇中劇監督や死に取り憑かれ・爆弾魔と交錯する重要キャラを演ず作者没入感は『ゲームの規則』並、ツキから間近死へ一変という石上扮す易者から友人間のやり取り・台詞とカット割りの分かり一貫、昔見た時は勿論デビュー前の船越英一郎がヒロインの相手役なんて分からなかった等未だ掴めてなかった手塚家の交遊関係の息子普通に享受の我々の上級階層の存在実感、ミュージカル振付けも内実過程より予め決められた届く形だけの連ねへの固執、終盤一転それまでのゴッコ世界から血糊も生々しく重々しい不可避の死の連ねの世界観裏表の臆面もない披露(只、エピローグで天国で皆がホンワカ再会)。画面や音がオリジナル以上にクリアで、よりノリきれなくなったなぁ、と観てたが、これは映画の成果を問う作ではなく、映画の可能性と身近さの羅列の共有を提案した種類の映画タイプと気づいてはくる。
………………………………………………
 そういった意味ではこの前に観た、いまの10代の高校生の作った、『あの頃』の、「成りたい夢が現実の現れ実感で消えた幼年時は、勇気あれば取り戻される」深いポジティブさと、カット前グンと画面視界に近づいて来た力は90°変トゥショットになるとそんな近さでもない、とか動いてる最中カッティングの『捜索者』的力にも届く、ベースのアングル・サイズ細かく切返しも過分に丁寧なデクパージュにも、作品としては劣る、作なのかも知れない。しかし、作品の高度さより、広い可能性実感に向かった以上、作品としての優劣を論じてもしょうがないのかもしれない。
 まして、より感動した『PE~』も、外への目配せと本音の垣間見せの手塚真世界より、劇中色々組合せも、その中味より、自分を含む主要人物の互いへの偽りない視線の画面定着の、作品自体の積み重ねとは別の当人同士の個人史の、本存在への到達への手段としての映画的世界構築、という内面世界著しの手段としての表現となってる、別個後に述べるナチュラルも結果複雑なルノワールルートのもの。そんなのよりも遥かに公世界を意識した、広い手塚真世界なんだと思い当たり、時代は明確に目指す外界と向き合ってたんだと、思い起こす。あの時代、『1941』やスピルバーグに入れあげてたなんて、僅かだが手塚真より年長の私には、当時そう言われても理解できなかったろう。我々には敵足る存在に近かったわけだが、同時にそういったあり方を否定もしなかったろう。そういった多面性も認められた時代。
 しかし、自らの世界は、お抱え?同志名カメラマンなよる、色彩の取合せやピントの揺れ、構図・カッティング積みやカメラ自体と対象の揺れ方も美しい、家財や家具・衣類の捉えや、聞かん坊時代もあった父母に愛され続けた赤ん坊の頃からの写真辿り、現況と近い将来故国に戻っても拭えぬ「寂しさ」と拍子抜け感を韓国語で級友と電話するさりげなさにさて置いて、映画的・社会的に、現在の異国親友との世界を創造組み立ててく本編に入ってく、『PE~』の方が遥かに自分に近いのだろうと思う。世代的に近い手塚真世界はごく初期の『FA~』を除き、遠いままだが、それも許せるのが同世代というものだろう。世代は違って、方法論も違っても、同じ真実を感じれる、現代作家は環境や立ち位置も違うことから、同志であるを願いたいポジションとなる。
 宇宙の存在や幸せ・在ることの意識、人生のピークの定めとその実感、すぐ裏には死の内外的存在の意識、ら若いだけに時折大上段に語るのが、映画やルーツの表現の過程で大小挟み込まれてくる。打楽器らの軽快な映像底上げ力欠かさず、ジャムつき食パンを宇宙人交信用に飛ばす、写真屋写るんです盗み(店内奥からのカットもありヤラセはばらしつつ意気を)・その写真を短トンネル風に勝手吊るし互い書き込みの勝手2人展・自転車2人乗り疾走・粗い主観移動光景仰角ら嵌め込み・花火とその短命に興じ・相手のヘリやオスプレイの音や事故の身近さ実感・ユニークな相手の小学校や生家や高齢樹の形の中に嵌まる・質問と答えの場と時間を違えての実際長いスパンを超えた自在編集・縦移動と横(フォロー)移動の巧み呼吸・それでも祇園祭1人に気づいての「そら」呼びと沖縄海から上がりくる下着付けの彼女の切返し(本来のその後続きはずっと後から)はやり過ぎ・様々な相手の知人への訪ね歩きの一種強引さ・相手の父と違い死んでも残る母実感に語りのエピソードの中に嵌め込まれてく。それまでの互いへの切返しや返答タイミング大胆編集の忌憚ない心情述べの作品の背骨はラスト辺でトーンを変えくる。涙出や取り分け作為の入ってないを強調(列車窓ガラスに固定カメラ写り込みも、ズーム寄ったりやパンの操作は信頼カメラマンが自然に入り込んでる)の列車内向き合い語り合う、互いへの一体感・共に成長感・貴重な若い時三年間の実感・互いへの自分を超える自分には掴めない敬意らを現してくトゥショットは、半フィクション出逢いセッティングでは届いてなかった、特に作者からの相手の、真剣な、というをこれ程現れるを見ることはなかった、眼差し~バックの車窓の半抽象に至る流れも薄められない~への捉え至りは、言葉を超えた世界。映画中盤迄は見られなかった顔つきで、それは他の全映画を含めても。喋ってる内容自体はそれ程大したことでもないのに。ピークを過ぎて終わるのではなく、ピークは新たに更新されるだけ、の認識至りは綺麗事でなく、伝わりくる。感動とは別に。この眼差し捉え到達は成果。
 異国後なのに感服する日本語表現、年長で大人の対応・認められた時の引き揚げられ感、周りには父母やあまり他には堂々紹介は…の感の友人らの狭い都会環境と確たるもののない育ちに対し、弾けた相方のベースには誇りと当たり前の沖縄があるを日頃から実感、の2人、幼馴染みを超えて今や一体化普通の、人生高揚期共有をフィクションでも今も見つめ合い語り合える。卒業とともに仮に疎遠になろうとも、「ピーク(と)は、更新されてくもの」の姿勢は確認され続ける。2人が引き込んだスタッフカメラも、色の滲みや広がりも、最初にフィルターありきでなく、内から欲すところから自然導かれてる。表面無意味に作者の顔具合に密着し続け、その安定とは限らない表情遺しは作者も選んでる筈。直感構成の力は、ロメールがルノワールを評したように、ドキュメンタリー力が引き裂きフィクションが停止して、真実やスタンスを覗かせ一層輝かせてく。しかし、黒木華辺りからめぼしい才能の過半を輩出してるようなこの大学は何だ。
 作品の社会的価値からは手塚作品は大事で不滅だが、そのパーソナル面からの補完は今も失くならならず、より大事なポジション足り得てる。

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製作国・地域:

上映時間:

25分
3.7

あらすじ

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