ケーティー

椿三十郎のケーティーのレビュー・感想・評価

椿三十郎(1962年製作の映画)
4.4
展開・アクションで心情や人間像をみせていくすごさ
奥方と姫の設定の絶妙さ


この作品のストーリーは、ラストで悪党のもとへ乗り込んだ若侍たちに、椿三十郎が発する一言のために、全てが進んでいくといっても過言ではない(※)。その内容はネタバレになるので書かないが、本作のすごいところはとにかく無駄なく展開だけで進んでいくところだ。例えば、映画には序盤に設定説明があったり、話が展開せず、心情を説明するシーンがある。(こうしたシーンは必要だからあるのだが、描きすぎてたり、展開部分とのバランスがとれてない作品も多い)しかし、そうしたシーンが本作も全くないわけでないが、少なくとも設定説明は、汚職を話す最初の数分だけで、椿三十郎が何者かの説明もなく、どんどんストーリーの展開で進んでいく。ここですごいのは、この展開の中で、例えば椿三十郎の性格だったり、それぞれの侍の人物像であったりを、話を展開させるアクションを通して説明してしまうところにある。

そして、話が進んでいく中で、展開だけかと思いつつ、実は心情シーンもさりげなくあって、それが所々に挟まれる椿三十郎と奥方・姫との交流シーンなのだ。ここで、椿三十郎の心情を吐露させる。それは、何か心情を台詞で言うなどの明白な方法でなく、二人を受け入れる描写やその様子(見つめる仕草など)でわからせていくのである。そもそも、椿三十郎は、人物の性質上、心情をべらべら話させると損な役どころだ。椿三十郎は、明らかに昔の西部劇のスタイルをとっており、どこからかやってきたのか素性のわからない、しかし、凄腕のクールな浪人が、町の人間を助けて去っていくという型を踏まえている。ここで大事なのは、この手の主人公は、クールゆえに、皮肉を言ったり、素直に言わないことが魅力なのだ。だからこそ、西部劇や時代劇の場合、ヒロインや子どもとの交流を設定するのが定番である。例えば、子どもの前では主人公が優しさを見せたり、俺のようになっちゃいけねえぜと本音を言ったりできるからである。しかし、本作では、そうした手法をとらず、呑気で人間味ある奥方に、主人公が心情を見せる、あるいは主人公を変えるキーパーソンの役割を設定したのが構成の個性であり、おもしろさにつながっている。その設定は、作品にコメディ的な面白さや人間が生きることの滋味みたいなものを感じさせて、何とも味わい深いものを与えているのだ。

そのほか、人質や仲間内での対立などの人物設定を活かした描写も抜かりなく見事に設定・描写されている。特に、いい人だがヘタレな味方たちが困難をつくっていき話を面白くするところなど、人物相関のつくり方もうまい。こうすれば、話がころがるというのがよくわかる。


(※)しかし、結局は変われない部分もあり、何かを学びつつも去っていくのは、まさしく西部劇のスタイルではあるのだが。