ケーティー

聖地には蜘蛛が巣を張るのケーティーのレビュー・感想・評価

聖地には蜘蛛が巣を張る(2022年製作の映画)
-
エブラヒミさんの芝居が印象的だった。しかし、本当に描きたかったのは犯人なのでは……


エブラヒミさんの迷いのない芝居が素晴らしい。その求心力で、映画をどんどん見せていく。

はっきり言って、犯人が捕まるまでは日本の2時間ドラマなどのテンプレートだと思った。
田舎町に女性が来て、ずけずけ捜索(取材)する、頼りない男の記者が相棒、ナイトワークの女性の殺されるシーンの悲哀等など定番の設定が並ぶ。特に、女性たちが殺されるシーンでは、死ぬ間際に「子どもがいるの」と言う女性、仕事に似合わず内気な女性、陽気なおばさんが出てきて犯人を手こずらせるといったそれぞれのシーンは、ベタなものの強さを改めて証明していると感じた。

しかし、この映画をユニークなものにしてるのは、犯人の存在だ。普通なら、弱者の女性を苦しめる犯人を追い詰める女性記者という話の軸にハイライトしてしまい、昨今ならサイコパス、昔なら何かの恨みが反抗の動機になっていることなどが犯人の描写の中心となるが、本作はそうではない。犯人はとても純粋で、だからこそ、現実の生活に息苦しさを感じているのだ。犯人の行為は決して許されるものではない。しかし、退役軍人としてかつて必死に戦ったのに、その後の日常では生きる意味を見いださせず、自分がさしてやりたくもない建築の仕事をして家族を養うだけが自分の人生なのかと疑問を持って生きている。これは、退役軍人というモチーフこそ特殊だし、「殉教者」になりたかったとしきりに言うことは特殊なのだが、失われた青春とその後をどう生きるかという普遍的なテーマをはらんでいる。

こうした犯人の描写と、それに対峙する純粋な女性の正義。これを同時に描いていくことが、この映画を面白く、豊かなものにしている。実際、映画を観た後、アリ・アッバシ監督は、取材をする中で、意に反して、犯人に共感してしまったとインタビューで述べていると知り、なるほどと思った。

しかし、監督あるいは脚本家は、終盤は、犯人を普通のサイコパス気味の男として、法廷の場面で描いてしまった……。
殉教者になりたかったと散々言っていた男が、死が近づくと恐怖におののくというのはある種の滑稽さがあって、非常に人間的で面白いのだが、私は裁判かラストの間際で、「俺は殉教者だ」、あるいは「俺は殉教者になりたかった」とせめて言わせるべきだったと思う。
そうすれば、ある一人の小市民の悲哀が出て、もっと連続殺人犯がどう社会で生まれるかを多面的に描けたはずだし、それこそが監督の本当に描きたかったことなのではないだろうか。