とても久しぶりに観た。昔は『晩春』が小津監督作品の中で最も素晴らしいと思ってたけど今となってはどれも甲乙つけがたい。そうかこんなに陰影濃かったんだっけとも思ったり、直接的にエモーショナルな表現は『東京暮色』よりもさらに強いように思った。劇伴もまだ悲しげなところは悲しげだったり。
いわゆる小津調の「完成」はやっぱりカラーになってからなんだろうなとあらためて。部屋の間取りや居間の造りなども、以後の作品からみると変奏的。原節子が道の右側、笠智衆が遅れて道の左側を並行で歩くシーンなど、カメラもまだ結構動いているし、清水の舞台にいる原節子らの挙動を超ロングで捉えたショットも珍しい。
北鎌倉驛から都内へ向かうシーンは『和製喧嘩友達』でもみられた列車の車輌すれすれのショットが大変躍動的。列車のロングショット、流れる風景などの多様な列車ショットはルノワール『獣人』をも彷彿とさせる。
また銀座で偶然出会った原節子と三島雅夫のショット、高橋豊子と宇佐美淳が玄関先でやりとりするショットなどで、前景にかなりの比重で建具や調度を置き、ガラス越しの視点などで遠くにいる人物を捉えているのも、戦後の小津監督作品ではあまり見られないように思う。特に高橋豊子らのショットでは人物はほぼ障子に隠れ、ピントも完全に手前のミシン台と放り出された繕いものに来ている。
いわゆる「日本的なもの」を強調する要素が前後のどの作品よりも強い。『晩春』と言えばの七里ヶ浜へ向かうサイクリングシーンにみられるOccupied Japanでの英語標識やコカコーラの看板、喫茶店、『淑女は何を忘れたか』を想起させる月丘夢路が住む洋風な部屋など「モダンなもの」の配置はもちろん忘れていない。しかし茶道に始まり、能楽堂で金春流の『杜若』を愉しむようす、京都の東寺や龍安寺、そしてあの旅館の壺など、海外での小津作品の評価が「日本的」であるとしたら『東京物語』よりも本作の方がその傾向は強いように思えるのだが。
今日観てて驚いたのが「お父さん、奥さんお貰いになるのね?」と原節子が詰問し、笠智衆がうん、うんと複数回応えるシーン。最後のうん、で笠智衆の口元が堪えられないかのように痙攣している。小津監督はよくこのショットを採用したなと思う。原節子の恐ろしいまでに冷徹な表情といい、ここまでエモーショナルであったかと、あらためて。
「お父さんの傍にいたいの。お父さんが好きなの」という原節子にどうしてもインモラルな発露を感じずにはいられない。笠智衆が言うようにのちには笑い話になるかもしれないけど、そういう完遂されない思いを一生持って生きていくかもしれないと思ったほうが、物語としてはやはり美しい。(蛇足だが月丘夢路が笠智衆のおでこにキスするのも『淑女は…』の斎藤達雄に対する桑野通子の腹パンに共通するものを感じる一方で、原節子の告白に対して真っ当な言葉でしか応じられなかった笠智衆の「後悔」をオルタナティブに実現させているのかもしれない、とも。)
陰影の濃さといいラストといい、とても重くて悲しい。軽さのなかにある残酷さやさみしさというのはまだ『晩春』には無いように思う。杉村春子だけが変わらずせかせかとしている。