てっちゃん

(500)日のサマーのてっちゃんのレビュー・感想・評価

(500)日のサマー(2009年製作の映画)
3.1
何か映画観ようか?となって、なかなか1人だと観ようと思わなかったけども気になっていた作品だったし、割とコンパクトだし、週末夜映画ってことで鑑賞しました。

結論、苦手な部類の作品でございました。
サマーに対して「なんだこの人は!!」という激怒なテンションではありません。
トムに対して「お前なあ、、」というケツ叩きテンションではありません。

1.なぜあそこまでサマーを悪く描こうとしているのか分からなかったから
2.作品自体の持つ雰囲気というか空気感が苦手でした
の2点だからです。

鑑賞後には当然のことながら、サマーがありえない!という感想だったのです。
あそこまで行動して、なんでそうなるんだよ、、とか思っていました。

でもあれこれ教えてもらって、トム目線でしか本作が描かれていないことに気づかされると、確かに確かに、と本作を頭の中で振り返ることにしました。
それでもの、結果が上記の2点です。

1.なぜあそこまでサマーを悪く描こうとしているのか分からなかったから

これについての答えはおそらく原作者?脚本家?の個人的な経験からだからで済むかと思います。
それか、男性のアホさを描くのに執着した作品にしたかったのかと思うけど、最初の方がしっくりときます。

サマーは自分の気持ちに対して正直です。
思ったこと、感じたこと、今の気持ち、その全てを表現します(言葉であり、行動であり、服装であり)。
一方でトムは、おそらく女性経験が少ないので、童貞臭がぷんぷんとします。
ちょっとしたことで気分が舞い上がり、自分の理想は相手の理想でもあると思い、悪い意味で夢を描き続けています(自分のことは棚に上げて書いてます)。

そんなトム目線で描かれている作品だからこそ、当然のようにサマーとの温度差というか、現実的なサマーと理想的なトムということで描かれていきます。

その”差”を楽しんで笑えるような作品であればすんなりときたのでしょうが、私にはその”差”に対する負担を全部サマーが負っているように感じたのです。

何度も書きますが、トム目線だからこのように感じてしまうのは当然のことではありますが、あまりにもサマーに対する妬みしか感じられなかったのです。

2人で過ごした時間は2人にとっての人生の中で格別な時間であったと思います。
だったらその共有した時間に対するリスペクトを感じさせて欲しかったのです。

”とんでもない失恋をして、ボロボロになって、理想的な考えから現実的な考えに変わって、次の出会いを見つけました”
そこにはサマーの存在はいませんでした(サマーと出会ったからトムに変化があったのですが、サマーが本来持っている魅力に対する部分は置き去りです)となってしまっているように感じたのです。

サマーはこれまでにトムと同様に男が勘違いしてしまうような行動を、”意識的”にしてきたのだと思います。
それを繰り返すことにより、自分の考え方を確かめていたのだと思います。
”意識的”にしてきたことは、トムと出会えて変わるかもしれないと期待していたのかもしれません。

その象徴的なシーンが2人で”卒業”を劇場で観るところでしょうか。
あのシーンで卒業の2人は見ている方向が同じでしたが、サマーとトムは見ている方向が違いました。
ここが決定的な瞬間だったのかもしれませんね。

2.作品自体の持つ雰囲気というか空気感が苦手でした

本作の特徴は2人が出会ってからの時系列がまぜこぜになって進行していくところにあるのでしょう。
でも効果的に動いているように私は感じなかったです。

結論は分かったうえで作品は進んでいきますし、いちいち集中力というか意識がストップして、始まるので作品に対する没入感が削がれているように感じてしまいました。

あと公園での”ペニス!!”と大声で言って笑うところとか。
トムが大失恋でぼろぼろになって周囲に対する辺り散らかしてそのフォローがないところ。
結局それでよかったんかよ!今までのはなんだったんだ!のエンディングとか。
登場人物たちの魅力がないところが致命的であると感じました。

いろいろ書きましたが、始めからサマー目線で観たら感想変わるかもしれませんね。

終盤で”オータム”という人物が出てくるのですが、ご一緒した方にそのことをつっこまれてもピンとこず、理由を教えてもらうと「はえー」となりました。

オータムという意味すらも知らないアホさ加減を炸裂させてしまい恥ずかしかったですが、それが分かると尚更になんやそれ感が出てきて悶々とする作品でした。
てっちゃん

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