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ふたりのベロニカのDemotoのレビュー・感想・評価

ふたりのベロニカ(1991年製作の映画)
4.7
私達の生が心を喪った先にもあるなら、私とは何者なのか。
そもそも私達の人生はいつから始まったのか。

ふたりのベロニカは共鳴する他人以上の関係性を以て心の在り方を象徴し、彼女達は魂と心の揺らぎを表象する。

魂を自己同一性の根拠とする。すると、心は魂と現実の接する界面、すなわち窓である。それはキェシロフスキの映画に度々登場する窓の風景(デカローグで人物たちは度々窓を覗き見、青の愛でも部屋を自意識の舞台として外界の界面として窓は機能していた。)、そしてベロニカの持つ玉を通した景色のように世界を魂に投影する。
生まれ死ぬまでただ一つの魂は個人の個人らしさの根拠として、現実の中での私達の在り方を決める。だが心はその界面として揺らぐ。魂は心を通して世界をどのようにも認識できる。

あの頃の心はいつ失われたのか。傷付くことを厭わなかった溌剌とした心、久しぶりに会う友人との関係の終わりも、慣れ親しんだ音楽に惹かれなくなったのがいつだったかも私達は思い出せない。その瞬間は知らされることなく私達の生の一部となっている。
ポーランドのベロニカの生と死の在り方は、パリのベロニカにとってのあり得た姿、その死だ。短い人生の中で変わる心を通して現実を生きる私達は、不変ではない。
心は少しずつ変わり、失われ、あの頃の魂の在り方は取り戻せなくとも続けなくてはならないのが今ここにある生だ。

私達は日々確かな喪失感の中で、それが何であるかも知らずに生きる。この映画は、それが失われた自分に由来することを、ふたりのベロニカの姿を通して描く。
自分は確かにそこにいた。写真の中で初めて気付けたベロニカは、失われた心と共に消え去った自分を悼み涙を流した。
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