Demoto

シン・ウルトラマンのDemotoのネタバレレビュー・内容・結末

シン・ウルトラマン(2022年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

ドラマ演出が脚本の面白さを損なうほど致命的に下手である点と、リアル志向の怪獣、宇宙人周りのリファインの素晴らしさが競合した進撃の巨人実写版の個人的再来。

自分は特撮パートには比較的寛容(実写版進撃の巨人を特撮アクションのために前後編2回ずつ劇場鑑賞した)なので、その点CGの粗さを補って余りあるシチュエーションアイデアにそこそこ満足した。
ゼットンもあれでいいと思っている。

だが樋口真嗣、もう辞めてくれないか監督は。
「演出」ってやつをナメてるだろ、本当に。脚本に沿って適当に映像取って繋げりゃいいってもんなのか?
各ショットで表現したい意図を精密に検討し、脚本全体からそのショットに必要とされる情報量を適切にそこに詰め、編集で全体のバランスを取ってそれでも十分に機能するか、世界的な大監督でさえ100パーセント成功はしないもんなんだろ演出ってのは。
あんな画面や役者の意図を検討しきらずに脚本に従って撮って出ししただけの映像の繋ぎに何の意味があるんだ。
学生でももう少しうまく撮れるだろ?
バディってなんだったんだ?
科特隊とウルトラマンのチーム的一体感はどこから生まれた?
ウルトラマンは人間に何を見たんだ?
そもそも科特隊の面子の名前が思い出せん。
最終決戦に至って人類は何をしたんだよ。
ラストの「おかえり」にはどう反応してほしいんだよ。
余計なドラマが多い映画がつまらないのではなく、ドラマが筋書きと一体感がない別軸で動くから無駄に見えるのであって、だがそれ以上に、何もないってのは本当にただの虚無的映像の連続でしかない。

何よりも許せないドラマを具体的に挙げると、有岡が演じた物理学者がゼットンに絶望し、神頼みしか手がなくなる、しかしウルトラマンに託された理論を元に突破口を見出す一連の流れだ。

庵野脚本でよく見られる(それこそトップをねらえ!最終話などに遡る)、超越的存在による絶望に対する人類の徹底的な抵抗(努力と根性)、その姿こそが美しく、尊いものだというテーマは今回も好意的に汲むとして、全く演出できていない。

自分は本職技術者として、そのようなテーマは実に心に来るものがあり、胸が一杯になる。
だが、今回で思った。庵野も樋口も、ロマンでしか語っていないのかと。

自分が積み上げ、一生をかけてきた研究が世界から無に均しいと言われたときの絶望(本当は科学にとってそれは好むべき事態だが、世界は終わるので無意味だ)は想像に難くなく、有岡の涙はよく分かる。
そしてウルトラマンは、ベータ理論の基礎方程式を(渋々)提示して諭すのだ。本当に尊いのは知識そのものではなく、それを追い求め、誰かのために役立てようとする、その推進力であり想いそのものなのだと。

だとすれば、研究者有岡の姿を徹底的に演出するべきだった。度々現れる怪獣の一見超自然的現象に対し、数字でそれを整理し解き明かそうとし続ける姿。そしてベータ理論・ゼットンに至って、自分の行いが虚無でしかないという絶望。ストロングゼロを飲んでいる場合ではない。そんな学生映画以下の演出はやめてくれ。
今まで自分が学んできた論文を焼き捨てるでも、データファイルを消去するでも何でもいい。初心を共にしてきた教科書に涙を溢してしまうでもよい。自分の研究者としての過去に向き合うシーンはいらないのか?
ストゼロ飲んで忘れられるほどお前の研究ってのは、研究に対する思いは浅いもんなのか?
それともストゼロが最期の晩酌になるほど好きなのか?それならいいが、それはそれで嫌だ。

世界と自然は未知の現象を無限に孕んでおり、自分はそれに向かって日々、戦いを挑んできた。自分が明かしてきたことは宇宙の広さに比べれば微々たるものだが、誇りを持ってやってきた。
庵野樋口からすれば、それはストゼロ飲めば消し飛ぶほどどうでもいい行いだそうだ。
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