このレビューはネタバレを含みます
映画は私達を救えるのか。自分が何者でもなく、全てに見放され、誰も救いに来ないこの世界で。
辿り着いた舞台で全てが録音だと示唆されることで、それまでの部分も含めて彼女達の体験全てが全て映画に過ぎないと言っているよう。
ダイアンの幸福への祈りを込めた人生の再演は、現実世界に折り合いを付けられない我々が映画に救いを求めることと重なる。
救われなかった者たちが、せめてこうであって欲しかったと祈るのが物語の目的の一つであると考えれば(最近ならワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドか)、マルホランド・ドライブのベティ登場部分はダイアンの救済を願った映画であって、物語を求めている我々とダイアンの視点が同一のものとなる。
悪夢的な雰囲気の満ちた奇妙な出来事の連続するベティのいる世界と、ダイアンのいる淡白な絶望感漂う世界とは、映画と私達の関係とオーバーラップする。だから幸福を願ったベティの姿は我々だと思う。
それ故に、ラストカットのロサンゼルスの街の回転とベティ、リタの姿は、映画の幻想を作り出す街と、それらによって作り出された幻そのもの。
現実に祈りを捧げる私達が「リタのいる世界」を求め、それは映画そのものだ。ロスの街にいる作り手たちが求めに応じて、願望を幻として作り出したもの、映画に私達は祈りを捧げる。
リンチはローラ・パーマー最期の7日間のラストで見せたように、この作品でも救われなかった魂の死後の救済を描こうとした。だがそちらでは悪霊の跋扈するロッジという異世界で、しかしこちらでは映画そのもので。