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数に溺れてのryosukeのレビュー・感想・評価

数に溺れて(1988年製作の映画)
4.3
全てのカットが俗悪な美学に従って神経質に作り込まれており、悪趣味で豪奢な飾り付けに彩られている様に呆気にとられるのだが、その拘りが「二度ある溺死は三度ある」という最悪の諺の実現に向かって数限りない悪ふざけを繰り出し続けるというくだらない目的に捧げられているのが素晴らしい。
「プロスペローの本」はちょっとハマれなかったが本作は好物だったのはそのしょうもない軽さもあるだろうか。それに、舞台を長回しで捉え続けていた「プロスペロー」に対して、本作は(一応という感じだが)カットとカットが同じ空間内で接続される語りの手法が用いられているため見易かったのもあるかな。やはり映画の語りにはそれなりの合理性があるのだろう。また、重々しく閉塞的なセット美術の連続でこちらを飲み込む「プロスペロー」に対して、本作は開放的な野外のロケ撮影も多かったのも良かった。流石グリーナウェイというべきか、屋外でも全てはコントロールされているのだが。
数については結構見逃してしまった。まあ画面全体を見たかったし仕方ない。
建物に映る縄跳び少女の巨大な影は「ベルトルッチの分身」ではないかと思ったのだがどうかな。
ビンを投げ合うゲームで、皆を「死体置き場」に寝かせながら一度もミスをせずパスを回し続ける女三人の姿を見て、この映画、このゲームでは彼女たちは殺す側であり決して敗北しないのだということを確信する。つまり彼女らはファム・ファタールであり、闇夜に突き刺さる鮮烈な光も、車の中の陰謀も、フィルム・ノワールの印なのであろう。
そんなシシーたちの力はフラッシュと共に突如現れる年配のシシーの姿(驚いた!)にも表れている。突如差し込まれる牛との衝突事故も衝撃的。牛の死体は本物だろうか。グリーナウェイなら生きた牛を殺してそうとか思ってしまう。
真ん中のシシーの殺害シーンは、タイプライターに残したメッセージや涙、わざわざランナーの来たタイミングでの犯行などから、一義的には決まらない心の揺らぎを感じるが、心情描写を繊細に読み取るような映画でもないか。
ラストシーン、やはり彼女達は水の中に向かっていく。映画の最後に示される自殺と導火線のイメージは「気狂いピエロ」だろう。前述した「分身」もゴダールオマージュに満ちた作品だった。後から思ったが、もしかしたらバーナード・ヒルが船と共に沈んでいくのは「タイタニック」の船長だからか?そうだとすれば酷い悪ふざけで素晴らしい。「数」の手法の真価はやはり100が出た瞬間のカタルシスだな。それぞれが繋がっているのかも分からない破茶滅茶の数々を力強くやり通すことで次第に説得力を生み、花火に彩られた画面を約束された美しい結末に見せる剛腕に拍手。
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