茶一郎

ガルシアの首の茶一郎のレビュー・感想・評価

ガルシアの首(1974年製作の映画)
4.2
 「男にはやらねばならぬ時がある」とかよく言ったもので、今作『ガルシアの首』は、もう失う物がない全てを失った男が一度、通した筋を最後まで通す、言わば暴力の慣性で最後まで行く狂気の一本であります。
 同監督サム・ペキンパーによる『わらの犬』が「ここまでやられて、やり返さなきゃ、男じゃない」という所まで追い詰められた男が、窮鼠猫を噛む的に最後の最後、反撃のための暴力に走った一方で、今作の主人公ベニーは最初から「やらねばならない」ということを知っている。たとえその「筋」が愛する人や自分を傷つけても、男は最後までやらねばならないのです。

 【粗筋】メキシコの大地主、怒り心頭。それは大事な愛娘テレサを、アルフレッド・ガルシアという男が妊娠させてしまったから。「生き死は問わない、ガルシアの首を持って来い」と、その首にかけられた賞金100万ドルを巡って、殺し屋、またどん底の生活を送っていたベニーが動き出しました。

 思えば、サム・ペキンパー監督はずっと「復讐」に取り憑かれていたふしがあります。スタジオが先行した作品とは言え監督デビュー作『荒野のガンマン』からその毛色が見え始め、『ダンディー少佐』、『ワイルド・バンチ』、そして『砂漠の流れ者』と、「復讐」のテーマを連発しながら、その「復讐心」を正義の名の下に押し殺さねばならないような描写が多かったのも事実。監督のフィルモグラフィを眺めると、復讐を完遂したと言える作品は少ないのです。
 そこでこの『ガルシアの首』。今作はペキンパーが「俺のやりたいことを全てやった作品」と言った一本でありますが、おそろくペキンパーの中にあった「復讐」の慣性がようやく辿り着いた作品が今作なのではないかと思うほど、主人公ベニーは最後まで復讐をやり抜きます。

 また、ペキンパー作品に見られる「居場所を無くした者たちの逃避行」という側面は、特に今作の前半部分によく表れています。劇中において、社会的な地位が低い娼婦と共に「逃避行」をする(もしくは夢見る)というイメージは、『荒野のガンマン』、『砂漠の流れ者』、『ゲッタウェイ』で見られる。やはり、女性への暴力描写をもって「ペキンパーは女性嫌悪」と一辺倒に批判するのはお門違いで、ペキンパーはいつも社会的な弱者へ優しい眼差しを向けていたということを再確認できます。
 
 「よくもまァ、ここまでやるな」という暴力の爆発。鮮烈な暴力描写と相まって、爽快とすら思えるやり過ぎっぷりです。
 そして、やり過ぎの果ては、己の居場所を無くした男が最後の死に場所を決める覚悟の瞬間。最後まで「筋」を通した男に向けられたペキンパーの持つ銃の先は観客に向けられ、「さァ、次はお前の番だ」と。今作をご観賞の紳士淑女の皆様、ここまで「やった」所を見た後に銃口まで向けられ鑑賞後に己の為すことを「やらねば」、それこそ男じゃありません。
茶一郎

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