Foufou

ホームワークのFoufouのレビュー・感想・評価

ホームワーク(1989年製作の映画)
3.5
いや、これ、もう、最後びっくりしてしまって。開いた口が塞がらず。

そこにはたしかに崇高としか呼びようのない何かが撮られてるんですけど、異教徒の私には、凶々しいとさえ感じられる何か。

『そして人生はつづく』で感じ取られたシネアストとしてのあざとさですよね。それが本作で臆面もなく発揮される。もっと言えば、これはあざとさがどのように生起するかをめぐるドキュメンタリーである。間違っても、イランの教育事情を告発するフィルムではないし、だから問題提起たり得ない。教育学部の連中がこぞってイランの教育事情とやらを知るために本作を観にいっていたのを思い出すが、それはあまりにも映画というものを信じすぎるナイーブな態度だろう。裏切りこそは、この映画の真骨頂である。

おそらくキアロスタミ自身、一人の親として、「宿題」をめぐって問題提起しようとしたのは本当なんでしょうね。ところが子どもたちにカメラを向けているうちに趣が変わっていったと。

子どもたちは誰ひとり、アニメと宿題の二択を迫られて、アニメとは言わない。そんなことないだろうとキアロスタミはしつこくしつこく聞いていくんだけど、子どもたちは宿題のほうが楽しいと答える。でも、宿題は親子関係を逼迫させ、いたずらに子どもから創造性を奪っていると、見識ある親たちは口を揃えて言いもする。そこに、朝ごとの全体集会における、アッラーとアリとイランの兵士を讃え、隣国の長サダム・フセインに死を宣告する子どもたちの黄色い唱和が不気味にオーバーラップする。公の場で本音を言うことのタブーをすでに子どもたちは刷り込まれていると、カメラは言わんかのよう。子どもたちから本音を引き出せないという苛立ちが、たしかに中盤から伝わってくるのでもある。同時にこちらは睡魔と戦うことに。。。

しかし、まぁ、我慢して最後まで観てください。ただ、最後だけ観てもあの驚きは得られないんじゃないか。じっさい、なにが目の前に起こったのか再度確認しようと巻き戻して観たときにはもうその感動は幻でしたからね。初めからずっと付き合っていかないと、あの極みにはおそらく到達できない。しかも、一回限りの至福。

結局、神を見たとしか言いようがないんでしょうね。おそらくは、それが偶然撮れてしまった、というのが本当のところじゃないか。

いや、でも。

なぜキアロスタミはインタビューする自分を正面から撮るカメラを用意したのだろう。彼の背後から子どもたちに向けられるカメラとカメラマンのカットを、なぜああまで執拗に入れ続けたのだろう。子どもの背後にもう一台カメラがあったのだろうか。公平を期すために、子ども目線のカメラを用意した? はたしてそうなんだろうか。それともあれはインタビューとは別に、後日撮られたカットという可能性はないだろうか。そして、それがそうだとして、それが意味するところはなんなのか。

インタビュアーとその背後のカメラを正面から撮るドキュメンタリーなんて、いまだかつて観たことがあっただろうか。やはり、ドキュメンタリーを口実に、撮るものはあらかじめ決められていたのではないかとも邪推されるのである。計算なのか……。

だとしたら、とんでもないもの撮ってるよ! とやはり叫びたくなるのです。

気持ち悪いというか、こわいよ。今年一番のホラー体験になるかもしれない。
Foufou

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