群青

東のエデン 劇場版 II Paradise Lostの群青のレビュー・感想・評価

2.8
前作の最後、黒羽さんから意思を受け継いだ滝沢。事態を収束するべく日本へ。


終盤のお話のたたみ具合が早くて、これTVシリーズの2,3クールでじっくりやったほうがよかったんじゃね?と思ったのが最初の感想。
せっかくのセレソンや100億円という魅力的な設定なのだから。劇場版というのもラスト3話くらいをやるとか、詰め込み具合を考えて欲しかったというのが正直なところ。

それでもこの二部作(とTVシリーズ)を通して描くのは、あがりをきめこんだ老害や生産性のないニートには主体的に行動してもらい、日本を良くしてよというもの。そして消費者だらけ(あがりをきめこむとも通じると思う)の日本はいかんでしょというもの。これらの大きく二つだ。

劇中の滝沢が言うお金の使い方についてが一番シンプルで分かりやすい。
お客様は神様というのはサービスを提供する側が持つ価値観であって、サービスを提供される側が振りかざすものではない。正直、これには確かに!という気持ちと、なんでこんなことに気づかなかったんだろうと思った。
劇中の黒幕が言うには国民は皆自分からは動かず、そのくせ人に指示されるのは嫌う、そして日本国がうまく機能するためには人知れずに自由を奪わなければならないと断じている。これは何か起きればいつも指摘をあげ連ねるだけだったり、国単位でどこかの言いなりになっているだけだ、ということだ。戦後70年である現在でさえも、日本は未だどちらかというと翻弄される側になっている。これは他でもないあがりをきめこんだものたちと、何も発言したり行動したりすることがなかった自分含めた若者に責任がある言えるのではないのだろうか?
実際、TVシリーズでヒロインの咲はミサイルが日本を襲い結果的に何も被害がなかった時、もっとすごいことが起きれば良いのに、と思う。もちろん若さというものもあるかもしれないが、それでも端的に日本の国民性を表しているのかもしれない。

しかしだからといって黒幕やTVシリーズの結城のような思想が果たして本当に日本のためになるのだろうか?
自分の国のためにという大義名分で飛行機や日本にミサイルを撃ち込んでいいのだろうか?良いわけがない。
それを愛がない、と滝沢が言う。
彼のみは最後まで他人を捨てることはなかった。責任の所在を作るために王様になると願った滝沢。その時はそのやり方でしか日本を動かすことができなかった。しかし結局、滝沢はどうしただろうか?

日本国憲法前文ににこう書いてある。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、(中略)ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、(中略)、その福利は国民がこれを享受する。

日本国の責任は僕らにある。紛れも無い僕ら。生きている間にあがりをきめこむことはできない。お金をもらう側ではなくお金を払う側が主体的にならなければ、愛がないだけだ。

それをこの作品は最初に言っている。やはりこの作品はその言葉を書いて締めるのが一番だろう。


noblesse oblige。今後も貴方が救世主たらんことを。
群青

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