このレビューはネタバレを含みます
1949年制作、黒澤明監督による刑事ものバディ映画で初期の傑作である。
黒澤の刑事ものでは「天国と地獄」という傑作映画があるが、本編は実話が基となっており、彼の大好きなジョルジュ・シムノンばりで臨んだもので、彼の初期の作品の中でもスリル&サスペンス度においてその萌芽がみてとれる。
『素材となった実話でいちばん黒澤の心をひいた点は、応用がきき、話を膨らませてゆく可能性があることであった。黒澤作品の多くは捜査の形式を取っている。すなわち「天国と地獄」「悪い奴ほどよく眠る」では犯人の、「羅生門」では真実の、「隠し砦の三悪人」では黄金の、そして「生きる」では生きることの意味を追求している。
黒澤がジョン・フォード作品を好む理由のひとつは、モラルの戦いとスケールの大きい追求の要素とがしはしば絡み合っているからだ』(黒澤明の映画 byドナルド・リチー)
真夏の昼下がり、うだるような暑さの中、混み合ったバス内で主人公の村上刑事(三船敏郎)は所持していた拳銃をすられてしまう。
責任を感じた村上刑事の追跡劇が始まる。
奪われた拳銃で犯罪が行われる前に取り返さなければならない。地を這うような情報収集の中から拳銃の闇売買マーケットの世界に入り込んで行く。
黒澤監督は真夏の昼下がりの暑さをプロローグにおいて犬の荒息のアップを使って表現をしている。全編を通してこの暑さを表現しているが監督にとってはお得意の雨や風、砂埃と同じレベルで暑さといったものも舞台装置に取り込んでいる。『暑さの表現は民衆が皆、力を失っている状況を表している』(byドナルド・リチー)
途中立ち寄る関係人の女のいるダンスホールの楽屋にはステージを終えたダンサー達が汗びっしょりになってなだれ込んでくる。扇風機がグルグル回り、うちわのパタパタ音が鳴る。踊り子達のゴロ寝風景。肌には玉を連ねたように汗が浮く。環境としてはゆるいサウナである。
戦後間もないこの時代、扇風機かうちわ程度しかない中で噴き出す汗を手拭いかハンカチで拭いとるシーンが幾度となく出てくるが観ている方も汗ばんで来るほどで、ハンカチの大きさが半端なく大きいし、ネジリ鉢巻やランニング姿、首から下げた手拭いなどが風俗化している。
それらは「天国と地獄」の犯人宅などの下界界隈、野村芳太郎監督「張込み」の出張時の汽車の中など時代を象徴するシーンとして多く見られる。
温暖化して現在の方が暑いということだが、この当時のがはるかに暑い!
そしてとうとう村上刑事の拳銃によって犯罪が行われてしまう。
打ちひしがれ辞表を提出する村上だが、上司はそれを破り「君の不運は君のチャンスだ」と励ましベテラン刑事の佐藤(志村喬)を付け執拗な追跡が始まる。
黒澤監督は物語の中にそこはかとなくヒューマニズムを滲ませるのが得意である。通常であれば刑事がスラれた拳銃で犯罪が行われるような大失態を犯せばこの時代、叱責罵倒された挙句、責任追及の矢面に立つところであるが上司たるやこうありたい、こうあってほしいを映像化しているのかもしれない。
一緒に捜査に乗り出したベテラン刑事佐藤役の志村喬がいい味を出している。決して大上段に立たず酸いも甘いも噛み分けた人生経験豊富な刑事といった役どころで存在感が光る。押したり引いたりツボを押さえた捜査態様に村上も引っ張られて行く。途中、2人で佐藤家へ寄り平和で温かい家庭模様に触れ、佐藤刑事の良き父親ぶりが披露されたりする。
こうして2人は闇のルートを執拗に追跡する中で、ある拳銃の闇ブローカーに行きつく。
検挙場所は巨人・南海(現福岡ソフトバンク)戦が行われる満席の後楽園球場でキャンディアイス売りにまで人相を手配しリアリズム感も増す。画像には川上哲治も映り込む。
キャンディアイス売りからの情報により場内アナウンスでこの男を呼び出して取り押さえ、当該の拳銃が遊佐(木村功)という男の元にあることを突き止める。
ここまでの追跡・捜査の周回行脚模様も実際の警察捜査に準拠したリアルかつ地道さが溢れている。ややもすると答えを知っている作者(脚本家)からは飛躍的で偶然性が強過ぎる都合の良い道行きが提示されることが多い。そうなった場合プロットとしては失敗である。
黒澤監督の捜査ものでは必然、無駄な捜査模様も流されたりしてその分、間伸び感やまだるっこさ、中だるみ感を感じる御仁も出てくるのかもしれない。
とは言えこうしたプロットがリアリズムをしっかりと担保することになると信じている。
最後の遊佐の追跡が第二部的に始まる。
村上と佐藤刑事は遊佐の実家から恋人ハルミ(淡路恵子)の存在を突き止め、彼女を追い、件のダンスホールの踊り子をしているハルミと接触する。だがそんな時とうとう遊佐が村上刑事の拳銃で強盗殺人を犯したという報告を聞く。
佐藤刑事はハルミの部屋にあったマッチ箱のホテルに出掛けて行き遊佐を発見、ハルミを張っていた村上に電話を掛けるも気付いた遊佐の凶弾に倒れてしまう。電話で銃声を聴いた村上は佐藤を呼び続ける。
遊佐は土砂降りの雨の中を逃走、ホテルの入り口で倒れ込む佐藤刑事に雨が打ちつけていた。
病院では佐藤刑事の手術が行なわれている間、「佐藤さん、生きていてくれ」と叫び続け半狂乱になる村上刑事の姿があった。
翌朝、一命を取り留めた佐藤の回復を待っているとそこへハルミがやって来て遊佐が午前6時に大原駅で待っていることを告げる。
村上刑事は病院を飛び出し大原駅へ。
この遊佐の追跡劇でかのスピルバーグ監督が黒澤へのオマージュとしている、ある映画のシークエンスがある。「激突」で主人公を追っかけ回すトラックの運転手がいるドライブインに入って行き、カウンターに並ぶ数人の男達の足元のブーツをゆっくりパンしながら見定めて行くシーンがある。
かかとがすり減っていることだけは分かっているがどれも似通っていて心の葛藤の声が流れる。
極めて静かに推移するがそのスリル&サスペンス度は極致である。
遊佐を駅待合室に追い詰めた時のシークエンスでも雨の中、ぬかるみを駆け抜けた犯人だからその白ズボンにハネが上がってるはずだと心の声の葛藤と共にゆっくりとパンしていくシーンがある。「激突」共々、観客も「こいつだ!」と犯人探しをするほどいつのまにか没入しているのである。
それにしても眉毛を剃った犯人役の木村功の人相の悪いこと帯びただしい。これが5年後に「七人の侍」で志村喬の後ろに金魚のフンみたいについて回るうぶな勝四郎になる。
もう一つ、黒澤監督がよく使う手法としてコントラプンクト(対位法)がある。緊迫したシーンにあえて穏やかで明るい曲を流し、わざと音と映像を調和させない手法〈音と画の対位法〉がある(by wiki)。元は音楽理論用語であるが、例えば「生きる」でのハッピーパースデイ場面、「天国と地獄」でのラストにおける犯人の住処に踏み込む場面、本編で闇市を必死に捜査する場面、そしてラストの遊佐との格闘場面など映画の中で多用している。
黒澤は映画における音楽の重要性を早くから指摘し、後にセルジオ・レオーネ監督もこれに気付き、エンリオ・モリコーネがそれを証明している。
黒澤監督曰く「映像➕音楽」ではなく「映像✖️音楽」でなければならない。つまり、この仕掛けによって無意識に効果が倍増することを意味している。黒澤明監督作品が面白いと思わせる一端がここにあるように思う。
村上刑事が遊佐を取り押さえるシークエンスも然もありなん。小川で泥だらけになりながら組んず解れつの手に汗握る格闘模様はまるで「七人の侍」、「木枯らし紋次郎」である。しかし、流れてる音楽は近所の主婦がPfで奏でるクーラウのソナチネである。
遊佐の拳銃にはまだ弾が3発残っている。
銃口が遊佐の震える手で村上に向けられているが村上刑事はたじろがない。彼は覚悟を決めていたのかもしれない。銃声が響く。
村上刑事が腕を撃たれながらも犯人に飛び掛かり精魂尽き果てるまで沼で格闘をし、やっと遊佐に手錠を掛け全身泥水でズブ濡れになった2人は並んで横たわる。俯瞰図の中で遊佐は慟哭する。幼児達が「蝶々」を歌いながらその側を通り過ぎて行く。彼らの頭上には蝶がゆったりと飛んでいる。動と静の対比が異様な緊張感と脱力感を醸し出している。
山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」の中でもラストの激闘の最中にも蝶を飛ばしていたことを思い出す。皆、上手く使っているのだ。
観ている観客はその都度コントラプンクトを意識することはないが効果倍増を無意識に堪能することになる。
また、もう一つの特徴として黒澤はカメラを動かさない。動かすとカメラの人為的存在を表現してしまうのを知っている。それ故に極力固定するのである。
いろんな技術や仕掛けを駆使しつつ、そのことを観客に悟られないようにして進行する。これも黒澤作品の面白さに繋がる一端であろう。
この映画のタイトル「野良犬」はもちろん犯人遊佐を指しているが、恐らく村上刑事をも表象しているのではないだろうか。佐藤刑事は言う、
「あいつは人を殺した。いわ
ば狂犬さ。君、狂犬がどう
いう動きをするか知ってる
かい?川柳にこんなのがあ
る。
きみが悪いほどえぐってる
んだが、狂犬の眼にまっす
ぐな道ばかり‥」
村上刑事においてはコルトだけしか視界になく猪突猛進の狂犬のように遊佐と同じ行動基準である。それこそクビになればそこらをうろつく文字通りの野良犬と化す。そういう意味では村上刑事が遊佐を捉えた最後の俯瞰図は意味深い。彼らは紙一重の狂犬達なのだ。復員列車でリュックを盗まれたのも共通していて何が彼らの行く末を分けたのか?なぜ村上は放火魔にならずに消防士になったのか?
「天国と地獄」のラストに面会に来た権藤と犯人竹内の顔が面会ガラスにオーバーラップするのも同様な意味である。
全編を通して若き新米刑事の村上は自分のコルトで犯罪が行われていることに悩み苦しむ。遊佐が強盗殺人に及ぶにあたり村上刑事は潰れそうになるくらいまでその思いは増嵩するも佐藤刑事は一括する。
「君のコルトでなく遊佐の
コルトだ!」
こうしたセリフにもヒューマニズムや組織管理論、ひいては日本人の持つ人情と徳目、そして優しさに由来しているような気もする。
この映画はモノクロで雨も降り音声も悪いが、既にそうした技術的集大成が収斂した一編であり、それら劣化点を凌駕して余りあるスリル&サスペンス性は勿論として上質なヒューマンドラマでもあり、組織管理論の要素を内包したポテンシャルのある傑作だと思っている。(一様字幕入りで鑑賞した‥なんか外国映画みたい)