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これがロシヤだ/カメラを持った男のmochiのレビュー・感想・評価

3.2
帝政ロシア期ではサロン風メロドラマが人気を博していたため、ソヴィエト連邦になってからそれに対する対抗策としてアヴァンギャルド・前衛映画が作られたが、その代表作。ゴダールがベスト映画にあげている。
監督のヴェルトフは映画によって人間の知覚(特に視覚)の革新を目指した。彼によれば映画のカメラと眼によりキノグラス(映画眼)が得られるらしい。
この映画をこれ以上高く評価されるものにすることも、低く評価されるものにすることもできない。この映画の直したい点を直すと、その分魅力がなくなる。+0.2点したら−0.2点同時にされるような映画である。
映画による文学的表現を否定したいため、ストーリーというものはない。映画独自の展開を狙う。しかしヴェルトフが見落としているのは、文学性は文学に起源を持つものだということではなく、人間が生活で求めているものだ、という点である。文学性が文学起源ではない、というのはおかしな話だと思うなら、ストーリー性という言葉を使えば良い。人間は日々ストーリー性を求めているように思える。有名俳優が自殺したら理由を求めてしまうのは、納得できるストーリーを組み立てることで不安を無くしたいからだ。ストーリー性が文学という芸術の一形態からできたというよりむしろ、日々の欲求が文学という芸術に発言したと考えたい。すると、やはりこの映画は物足りないということになる。
しかし、この映画が持つ利点は確かにある。ストーリーがないため、モンタージュにより提示させる各ショットは、我々の心理により意味づけされる。後に続くシーンによって前のシーンでの人物の表情の解釈が変わることは有名である。各ショットに我々が意味を与えるのである。現代の一般的な映画は、監督の側に正解があり、それを前面に押し出すので、意味は我々が与えるのではなく、むしろ我々が意味を与えられるのである。
要するにこの映画の利点も何点も表裏一体なのである。だから、この映画はこのようにしか評価できない。ただ、こういう表現に挑戦した映画が少ない点は非常に残念に思う。
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