Naoto

気狂いピエロのNaotoのレビュー・感想・評価

気狂いピエロ(1965年製作の映画)
4.5
映画、文学、音楽、絵画などという事柄は基本的に知性を使って知覚する物だと思う。
そして知性は最大多数を推し量ろうとするので普遍的な物だ。
(どれもより多くの人の共感や感動を呼ぶことを目指している)
ところが、そうした普遍的な物は今に変換し直さなければ役に立たない。
例えば、映画という普遍は"今"観るものであるし、それによって得た知識や教訓は"今"役立てなければならない。
つまり、瞬間がなければ普遍はない。

本作は、そうした普遍と瞬間の交わらなさを謳った悲歌であったのだと思う。

ストーリーは至ってシンプル。
フェルディナンがマリアンヌに振り回されて、犯罪を犯しながら逃避行を繰り返すというもの。

しばらくすると2人には時間的な役割が与えられていることに気づく。

時間があれば本を読んで小説を書き、マリアンヌという女を頭で理解しようとするフェルディナンは知性的。
知性は普遍的なものであったので、フェルディナンは普遍。

対するマリアンヌ。
基本的に知識に一ミリも興味がなく、行動様式にもパターンがない。
生きている実感が必要。と実際に言うぐらい知覚するより感覚することを求める。
欲望のままに動く衝動的な生き方しかできないので、瞬間。

フェルディナンが雑多な知識で風呂敷を広げれば虚無が映り、マリアンヌが奔放に踊れば刹那的なものがすぐ損なわれるという側面が映る。
逃避行は続き、普遍と瞬間は交わらない。

そして迎えるラストシーン、フェルディナンはある行動を衝動的に行う。
それは普遍的なものが、今この瞬間に実感を伴って存在しようとしたことを示す。

これを夭折の詩人ランボーの言葉を借りて、

"見つかった
何が?
永遠が
海に溶け込む太陽が"

と表現する。

これを本作の文脈に則って意訳すると、
普遍が瞬間と交わり、永遠として見出された時、それは海に溶け込む太陽となって水平線の向こうに沈んでいった。

と言うことなのだと思う。

"愛は瞬く間に
高貴なる心に燃え移るもの
愛は愛されれば
愛さずにはいられないもの
愛は私達を一つの死に
導いた"

(神曲/ダンテ)

その時生まれた物は紛れもない悲劇であった。



おまけ(メモ)
シュトゥルムウントドラング(嵐と衝動)に近い。

ゲーテ/若きウェルテルの死
シラー/たくらみと恋
ダンテ/神曲・地獄篇第五歌
Naoto

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