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友だちのうちはどこ?のmochiのレビュー・感想・評価

友だちのうちはどこ?(1987年製作の映画)
4.1
アッバス・キアロスタミ作品を初鑑賞。良作かつ力作。子供が大人への一歩を踏み出す契機を描くとともに、イランの社会的背景に対する批判的考察を含む。同じような内容を欧米社会で描こうとすると、かなり無理矢理な設定が必要になる気がするが、イランという国だからこそ、無理のない設定でリアリティを感じさせる。欧米の監督では描けない映画を描いている、という仕方で本映画を評価するのはオリエンタリズムを感じさせるため、あまり好きではないが。
「機動戦士ガンダム」の富野由悠季監督の作品では、子供が大人になるための契機として、一生背負い続けなければならない、取り返しのつかない出来事が描かれがちだ、ということがしばしば言われるが、本作品もそれに近いものがある。より明確化して言えば、責任の観念を知ることが、大人への契機として描かれる。知人が責任概念は責任が取れないときにしか生じない限界概念だ、と述べていたが、その通りであり、本作は取り返しのつかないことをした主人公が、責任を取ろうとする物語である。このような出来事は、子供にとっては大事件だが、大人にとっては日常の一部である。大人になると、普段の生活では起きなかったことが起きても、それを日常の一部として許容することができるようになる。一方子供にとっては、普段の生活では起こらないことは、日常には数えられないものである。子供にとっては、日常は厳格なもので、少しでもそこから外れたことが起きれば、それは事件である。だからこそ、子供時代は大事件の連続であり、時間の経過もまた、遅く感じるものである。本作で描かれる周りの大人たちと対応は、子供にとって大事件であることを理解していない対応である。本作の優れている点は、大人である我々が見ても、主人公と同様の緊迫感を感じることができる点にある。それは独特のテンポや、予測を外す装置の使い方にある。例えば、最初のシーンでは、多くの人が、扉の中から子供達が出てくるシーンが続くと想像するが、実際は教師が中に入るシーンで始まる。
主人公が隣町に行く前の母親との会話はとても重要である。子供にとって、親は神と同様である。親の言葉は神の言葉であり、家庭は世界である。だから、親を説得して、隣町にノートを返しに行こうとするのである。親が説得できないと知ったとき、主人公は親の言いつけに背き、隣町に行く。これは彼にとっては神への叛逆に近い。しかし、彼は自分自身の責任の観念により、なすべきことをしたのである。これは大人への第一歩である。自己の頭で考え、自己がやるべきことを、彼の世界、彼の神にそむいて実行したのである。このシーンを長いと感じる人は多いかもしれないが、それは我々が大人であって、親に背けばいいじゃないか、と感じるからである。しかし、この決断は、子供にとっては全く容易ではないのである。
そして何より重要なのは、ノートを主人公が返すことができない点である。この事実は二つの点で肝要である。第一に、映画として、期待を裏切る作りになっているという点。2人がなんとかして出会う画を想像した観客は多いはずである。第二に、これが主人公の成長をさらに促している点。目的が達成されなかった場合に、彼自身が次になにをするかを考えるのもまた、大人の条件である。これは良いことでもあり、悪いことでもある。事実、主人公の行為は不正である。2人分の宿題を行うという行為は、一般的に見れば不正である。一方で、主人公が責任を取るには、この行為しかないのである。このような判断を積み重ねて、我々は普段生きているのである。
こうした子供に対する通過儀礼的な側面だけでなく、本作品ではイランにおける大人と子供の関係が批判的に描かれている。本作品に出てくる大人の多くは、子供に対して服従を強いている。あるいは、服従を強いなくても、主人公を惑わせる存在として登場している。主人公の祖父の一連の発言は、これまでに形成されてきた親子関係についての価値観を表現しており、手段と目的を取り違えているようにも見える。一方で、子どもは多くの場合正しいことを述べている。
最後に。ラストシーンはとっても美しい。
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