このレビューはネタバレを含みます
今回も勝手な考察を並べながらダラダラと長い感想を述べています。たくさんネタバレも含まれていますので、まだ今作をご覧になられていない方はご注意ください。
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冒頭は穏やかな音楽と共に、晴れやかな門出を祝う結婚式のシーンから始まります。
チャペルで皆が集う中、美しい新婦は純白なウェディングドレスの上から身籠ったお腹を大事そうにさすり、恰幅の良い新郎はその隣で誇らしげに佇み、式場のどこかで赤ん坊が退屈そうに泣いています。
外は初夏の日差しでしょうか。並木道の木漏れ日がキラキラと輝き、まるでこの日の二人を祝福しているようです。その陽だまりで撮られる親族の集合写真の風景からは微笑ましい多幸感が漂います。
しかし、この穏やかな流れは長続きしません。その日おばあちゃんが帰宅して早々、脳卒中で倒れてからはお祝いムードも一変し、冒頭からの幸福色は少しずつ褪せて行きます。
そこから徐々に沸き起こる登場人物たちの現実的な苦悩。その些細な心の歪が複雑なドラマを作り出していきます…
ヤンヤンの周りで起こる群像劇。
「ヤンヤン 夏の想い出」という可愛らしい邦題とは裏腹に、この物語は人の心が彷徨うさまを繊細に描き出しています。
表と裏、内と外、光と闇、現実と夢、真実と嘘、好きと嫌い、オリジナルとコピー、夜の帳と部屋の灯り、初めてと終わり…
こうしてふんだんに描かれる様々な対比や相対。冒頭の結婚式と物語のラストの場面は、その最たると言っても良いでしょう。
相対とはコインの表裏と同じで、どちらかが見えているうちはその反対側は見えません…
「お互い何が見えているか分からないとしたら、どうやってそれを教え合うの?」
「真実の半分だけってあるの?」
「前からしか見えないなら、半分しか分からないということでしょ?」
幼いヤンヤンは純粋な気持ちで大人たちの世界を眺め、父親のJNにこのような質問を投げかけました。ヤンヤンは"本当"という不思議に触れ、その答えを探そうと好奇心に満ちています。JNはそんなヤンヤンに「そのためにカメラがある」と言いながら、自分が使っていたカメラを手渡します。
ヤンヤンが求めている"真実"の全て。ヤンヤンは年齢を重ねさえすれば、自分の知らないことは全てなくなり、その先にある"真実"も見えて来るのだと信じているようです。
ヤンヤンにとってのおばあちゃんはその全てを知る最たる人で、幼い子供の目線からでも、人生という年輪は、ひたすら長く歩み続けた経験によって刻まれるものだと知っているようです。
ちょうどその途中で人生の難しさを感じているのが、ヤンヤンの周りに居る家族たちです。
母のミンミンは、おばあちゃんが意識を戻さなくなってから少しずつ心が壊れ、その治療を理由に家を出て行ってしてしまいました。
また姉のティンティンも、おばあちゃんの事故は自分のせいだと常に気に病み、そして初めての恋にも悩みます。
JNは家族のことと会社のことの両方で周りに振り回され、併せて昔の恋人との再会により、どこか心が定まらない様子が見受けられます。
人の感情というものは、人間関係によってまどろっこしく入り組み、誰もが人知れず孤独に迷い、先の見えない未来に怯え悩まされるものです。そんな彼らの心の内を上手く映し出していたのが、この作品で多数見られる窓ガラスを使った反射鏡像の演出です。
新幹線の車窓に映る寂しげな顔。オフィスの窓から見える都会の夜景。ブラインドを閉じた時に浮かんだ車のテールランプとマンショに灯る窓の明かり。さまざまな居場所とそれぞれの夜。
部屋から夜景を眺めようとすると、照明が窓ガラスに反射しガラスは半透明な鏡へと変わります。
外に見える一つ一つの灯りには、それぞれに人が居て、そこにはそれぞれの人生が存在します。その繋がりを見せずに点々と散らばる都会の灯りは、どこか孤独を感じさせ、その孤独がガラスに映る自分の顔と重なります。
ガラスの鏡像に映る内側と外側。
ヤンヤンの言葉を借りれば、それは"半分ずつの真実"と言えるのかもしれません。
そうやって描かれて行く登場人物の中で、一人だけ異質な存在に感じるのが日本人の大田です。彼からの印象は、誠実で、調和的で、革新的な人。前向きな思考を持ち、一歩ずつ着実に歩み続けるような人物像です。それは色々な会話からでも想像できます。
企業間で業務提携を進めようとしている最中、先駆的な発想を持つ大田が、リスクを恐れるJNとの会話の中で「私たちはなぜ"初めて"を恐れる」そして「人生、毎日が初めて 毎朝が新しい それでもなぜ、毎朝恐れずに布団から出れるのか」と話していました。
ここで言う"初めて"とは、"未来"とも置き換えられます。人は暗闇を恐れるように未来を恐れ、そこで起こり得るリスクを恐れます。ですから大田は、煮え切らないJN側の返答を見兼ねて「人生、毎日新しいリスクは付きもの。それでも我々は未来を恐れず歩むしかない」と説いているようにも感じられます。
また別の日に大田はJNにトランプ手品を披露しました。JNは伏せてあるカードを全て言い当てる大田の手品に驚き「どんなタネがあるのか?」と大田に尋ねるのですが、大田の答えは「タネなんてない、全てのカードをどこにあるのか把握しているだけ」だと言っています。昔一度マジシャンに弟子入りを断られ、リベンジするために時間をかけて独学で身につけた技術だと言うのです。
リスクを恐れず一日一日を前向きに過ごし、また根気強く独自の方法で手品を習得した大田にとっては、人生もマジックも基はどこかで繋がっていると感じているのかもしれません。この世にタネや仕掛けも存在しない、あるのはこれまで行ってきたの行動の蓄積だけであり、目に映るのは現実的な結果だけなのだと。
その考え方は、そのまま最後に訪れるJNと妻ミンミンの会話と重なって行きます。
「物事は複雑じゃない、複雑に見えるだけ」
「人生をやり直すチャンスなんて必要ない」
世の中はシンプルな形で繋がっているだけ、複雑に見えてしまうのは人の心が複雑だからこそ。人生もそれと同じくらいにシンプルなもので、ただ一日一日を着実に過ごした結果が今に残るだけ。それさえ分かっていれば、"人生をやり直す"ような手品なんて必要はない…
今作の原題(英題)は「a One and a Two」。別表記では「1+2」ともされています。このタイトルが表すイメージは、"足す"や"繋げる"とか、"重なる"などが思い浮かびます。または1から2へのステップアップという意味にも捉えられます。
邦題は「ヤンヤン 夏の想い出」という、ヤンヤンの少年時代を切り取ったようなタイトルになっていますが、僕は冒頭の結婚式場で赤子が泣く場面からラストの葬儀という一連の流れが示したとおり、この作品は人の"人生"そのものを描いているように感じました。
人生とは「1+2」のようなシンプルな積み重ねであり、人は1から2へと自然に成長して行くもの。人生をショートカットする手品はないし、ましてや人生をやり直す魔法もないのだ。と…
僕はそんな落とし所の作品だと思ってたんです。孤独と人の繋がりを描きながら、地道に生きる人の成長と人生の尊さを示してくれた作品だと思ってたんです。それで良いと思ってたんです。
しかし、最後のヤンヤンの手紙シーンで、この作品の捉え方が変わってしまいました。
あれ、ズルいと思います。
「おばあちゃん、ごめんなさい」
から始まる手紙。
「僕は話しかけるのは嫌じゃなかったよ、おばあちゃんは僕が話すことなんて、全部知っていると思ってたから…
僕はおばあちゃんみたいにたくさんは知らないよ。だから大きくなったらなろうと思うんだ。
人の知らないことを教えてあげたり、見たことのないものを見せる人に…」
僕はこの無垢な子供が読み上げた手紙に心が震えました。その理由は上手く説明できないのですが、僕の中でこの時のヤンヤン少年とエドワード・ヤン監督の姿がピッタリと重なったのです。
だって、まだ幼いヤンヤンが"大きくなったらなりたい"と願っていたことって、この作品そのものじゃないですか。この作品はこんなにもたくさんの真実を伝えようとしてるじゃないですか。
人の知らないことを教えてあげたい。
人が見たことないものを見せてあげたい。
そう願ったあの少年は、その後もカメラを持ち続け、いつの日も色んな人たちの"もう半分"を撮り続けたのではないでしょうか。あの日の少年の願いは大人になっても変わらず、その純粋な思いがこの作品を作らせたのだと勝手に想像してしまうのです。
ヤンヤン少年が写真に撮り続けた色んな人たちの後ろ姿。その顔の見えない写真は、大田の手品とも重なります。カードを伏せたまま表の絵柄を言い当てる手品と自分では見れない自分の後ろ姿の写真。それはどちらも真実を追求した形です。
真実の半分ともう半分。表側の半分とその裏側の半分。この二人は表と裏との堺にある隔たりを取り払うことで、偽りのない、ありのままの真実の姿を映し出そうとしています。
表も裏も存在しない世界。
これこそが本当の"真実"であり、ヤンヤン少年が手紙で語った「人の知らないこと」「人が見たことないもの」じゃないでしょうか。この純粋世界こそが、ヤンヤン少年が求める"答え"そのものじゃないでしょうか…
この作品はその"答え"を形にしてみせたのです。
本当、手品みたいな演出です…
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久しぶりに観るエドワード・ヤン監督作品。
やっぱり好きです。
まるで人の心を透かして見せてくれる繊細なタッチ。画角から滲み出るコントラストは、登場人物たちの輪郭を鮮明に浮立たせています。
その他にも画面からたくさんの情報が流れて来ます。先に述べた窓ガラスの反射鏡もそうですが、ティンティンが交差点でキスをするシーンや、熱海のホテルの部屋で JNが明かりも点けずに座ってタバコを吸うシーンも深く印象に残ります。
夜の闇に溶けながら逆光に浮かぶシルエットからは表情は見えないものの、どこか背徳な感情が見え隠れし、東京と台北、親と子、初恋と再縁という交互に折り重なり合いながら映し出された恋愛の行方を上手く表しているように感じました。
また、今回も小津安二郎監督の画角を思わせるシーンが何ヶ所か見られましたが、今作では画角だけでなく、ストーリー展開そのものが、東京から熱海へ立ち寄るという「東京物語」を想起させるような流れもありました。
想起と言えば、ティンティンが恋した相手ファティが起こした事件も「牯嶺街少年殺人事件」を連想させられます。
「牯嶺街少年殺人事件」では約4時間も掛けて小四が殺人に至るまでの経緯を丁寧に表していましたが、今作ではとても雑な描写で事件の全貌を示していたような気がします。
これは全くの憶測になりますが、その理由としては、ゲームのリセット機能と同じように、短絡的に殺人という形で現状をリセットしてしまった者への扱い。と見れば、なんとなく腑に落ちます。
今回は長く続く人生がテーマです。勝手に人の人生を断ち切るのはルール違反です。そのルール違反に重点を置いて話を掘り下げるのは、今作に関して言えばどこか違うような気もしますから。
あと他に想起したのが、ヤンヤンがお小遣いで買っていた、富士フィルムのパッケージも「台北ストーリー」に出てきた巨大看板を連想させてくれました。
こうやって作品を観ているだけで、過去に観た色んな作品の色んなシーンがフラッシュバックしてくるんです。そうすると、また色んな作品を見直したくなるんですよね。
そう考えると、結局この作品がエドワード・ヤン監督が撮られた実写映画として最後の作品となります。本当に勿体ない。もっともっと彼の新作が観たかったと、このレビューを書きながらつくづく思わされてしまいました。
正直、まだまだエドワード・ヤン監督作品で観れていないものもありますけど、レンタルどころかセルでも手に入れにくいのが現状です。
ああ、完全にエドワード・ヤン監督作品を欲している自分が居ます。
何か観る方法ないのかなぁ…