ベイビー

オアシスのベイビーのネタバレレビュー・内容・結末

オアシス(2002年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

砂漠の真ん中に小さな湖と一本の椰子の木が描かれた刺繍画。その"oasis"というタイトルが付けられてた絵には、窓から射す木の枝の影がいつもゆらゆらと揺れています。

その影が怖いとコンジュは言います。ジョンドゥがどうして怖がる? と尋ねても、コンジュは、とにかく怖いと答えるのみです。

孤独という名の砂漠。いくら家族だろうと、隣人だろうと、宗教だろうと、自分の声がそこに届かなければそれは無いのと同じです。人間社会の砂漠です。

障がい者の自分を金の成る木にしか見ていない兄。障がい者に性の意味は分からないと決めつけ、コンジュの部屋をラブホテル代わりにする隣人。世間は親切なフリをして、障がいのある自分を一人の人間として見てくれないのです。

きっと"oasis"の刺繍画にかかる木の影は、そんな人たちのことを指しているのでしょう。ちなみにfilmarksさんでも使われているキービジュアルは、コジュンの部屋に飾られた"oasis"の刺繍画と重なります。コジュンとジュンドゥは砂漠で寄り添う湖と椰子の木。その周りには女性が踊り、少年は花を撒き、象も楽しそうに歩き回っています。

この物語の構図としては「ロミオとジュリエット」のように、コンジュとジュンドゥの二人だけの世界とそれ以外の世間で分けられます。言い方を変えれば、コンジュとジュンドゥは世間から外れた二人とも言えます。

正直、ここに登場する人たちの障がい者に対する言動は目に余るものがありましたが、それはそれとして、やはり僕自身もその人たち同様"それ以外の世間"の一人。この物語をなぞって二人に感情移入が出来たとしても、自分を当事者として彼らに当てはめることは出来ませんでした。

二人の愛は同情でもなく、罪悪感からでもないからでもありません。ただただ一般的に起こり得る、偶発的に出会った恋なのです。コンジュを障がい者としか見ていない僕では、二人の絆に触れることはできないのです。

そんな難しい題材にも関わらず、あの二人の愛を応援出来たのは、"実"と"虚"を組み合わせた演出のおかげだと思います。白い鳩が鏡の光に変わった瞬間から、こんな僕でもコンジュの心にピッタリ寄り添うことが出来たのです。僕らと同じ健康的なコジュンの心が、そこにしっかり描かれていたからです。

それからたびたび差し込まれるコンジュの妄想。とにかく電車でのワンカットの演技をはじめ、"実"と"虚"の入れ替え方がエグ過ぎます。叫びたくても叫べない演技。あの表情から喜びを爆発させる演技。一瞬で恋する女性になる演技…

「ギルバート・グレイプ」のディカプリオの演技さえも超えるようなムン・ソリさんの迫真の演技。ソル・ギョングさんもそうですが「ペパーミント・キャンディ」とは全く違うキャラクターを見事過ぎるくらいに演じてます。

最後に魔法使いになったジュンドゥ
それに声を出して応えようとしたコンジュ

歪ながらも共鳴し合った二人の愛
二人だけしか分からない
互いに求め合う二人だけのオアシス…

それにしても、ジュンドゥは魔法をかけたはずなのに、最後はどうして"oasis"の絵から影が無くなったカットを差し込まなかったのでしょうか? それは未だに世間から偏見が消えていないからだと言いたいのでしょうか? もしそうだとしたら、とても悲しいメッセージだと思います。

「ペパーミント・キャンディ」を観てイ・チャンドン監督が気になり、それから「バーニング 劇場版」を観て他の作品も観たくなり、フォロワーさんからの勧めもあって、今作を早速観させていただいたのですが、今回観て本当に良かったです。噂どおりの凄い作品でした。

観ている途中、コンジュと脳梗塞で車椅子生活を余儀なくされた自分の母親とが重なり、コンジュの孤独に胸を痛めながら、母親が施設で寂しく過ごしていないか心配になりました。

施設からコロナ禍では不要不急な見舞いと電話は避けるように言われいるので、最近母親の笑顔を見れていません。ですからコジュンに献身的に寄り添うジュンドゥ見ていると、母に何もしてやれない自分の不甲斐なさと心配で気もそぞろになってしまうのです。

そんな塞ぐ気持ちで今作のレビューを書き始めたところ、母親から「元気にしてる?」という電話が掛かって来ました。もの凄いタイミングです。

これが僕のオアシスです。母の元気そうな声のおかげで、また明日からの仕事もがんばれそうです。
ベイビー

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