河

愛の世紀の河のレビュー・感想・評価

愛の世紀(2001年製作の映画)
5.0
『ヌーヴェルヴァーグ』『新ドイツ零年』が自分の信じていたものの敗北を苦々しく懐古しながらその終わりを描くような作品だとしたら、それ以降の作品には段々と次の世代に視点が移っていくような感覚があって、この映画はそれが極まった作品のように感じた。そういう意味で『新ドイツ零年』と並んでゴダールの映画で現状一番好きな作品かもしれない。

青春時代を前進するために過去を消したがる時代として、老年時代を衰えに対する拒絶から現在の時の流れを拒否する時代、過去に生きる時代とする。そして、レジスタンスには青春時代と老年時代のみしかない、青年期として過去と向き合いながら現在を生きたことがない。
レジスタンスの物語を持ち、その老年時代として記憶と過去に生きる国としてフランスがあり、フランスのみではなくあらゆる国の物語をある種表面的に剽窃していく国、歴史や記憶がないためレジスタンスの存在しない国としてアメリカがある。さらにそのフランスとアメリカの関係性はフランス映画とアメリカ映画(スピルバーグ株式会社)にも対応していて、それを表すようにブレッソンの『スリ』と『マトリックス』のポスターが同じ映画館に並ぶ。
その記憶や歴史を言葉として、その言葉と向き合いながら過去との比較によって現在を認識することが愛であるとすれば、グローバル化する中でそれらを表面的に奪いつつも忘却していく国家という概念はその愛と矛盾することになる。
アメリカによって比喩的に語られる現代社会、現代の人々の過ちの根本は存在(=自分自身)と人生(=自分の周囲)を履き違えていることで、自分自身のために他人を変える、自分自身に都合の良いように他人の物語を変更することにあると指摘する。そのような人や社会にとっては事件によって感情が動く(映像に対して視線はその映像の作成者に管理されたプログラムのように受動的に動く)。それに相対する姿勢のように、ブレッソンのシネマトグラフ覚書から、他人ではなく自分を監督すること、感情によって事件が起こることが主人公の所信表明のように引用される。そして主人公は過去と向き合い映画を作る(多くの影を引き連れてシャンゼリゼに向かう)ことを決める。
主人公であるエドガーはゴダールの21世紀における後継でもあり今のゴダール自身でもあるような若い映画監督になっている。レジスタンスの歴史をカトリックとプロテスタントという歴史から始めて紐解こうとするところから始まり、レジスタンスの老夫婦とその孫との関係性によって、レジスタンスとして青年期に移るとは、大人になるとはという問いを求め始め、それを映画にしようとする。しかし、その答えは見つからず、それを知ってるように見えたそのレジスタンスの孫は労働者として働いていて、その後自殺する。それによってその答えを求めることにも映画を作ることにも挫折する。
自殺したレジスタンスの娘から渡される本は、自発的隷従、カッサンドラ(破滅する未来を予言するけど、その予言を誰にも信じてもらえない)、エドガーの旅の3つでその中から一つを選ばなければならない。この本がそのまま主人公のこれからの選択肢になっていて、それぞれレジスタンスの老年期、青春時代、そして青年期を探す過程に対応している。それが現代パートのラストになっている。さらに、過去パートのラストでは全てが終わった後に意味を見出すこと、それによって真の歴史が始まることがその孫のセリフによって語られる。それらによって、その2つのパートのそれぞれのラストが反響し合うように、その主人公がまた新たに青年期を探し始めるような感覚を残して終わる。
二部構成になっていて、一部が現代パートとして主人公の映画作りの過程とそこから挫折し、そしてそれによって歴史を得るまで。二部がその2年前として主人公が映画を作り始めるまでっていう構成になっている。さらに一部がモノクロのフィルムで、それに対して二部がデジタルの極彩色の画面になっている。その対極的な2つのパート間、パート内で同じようなセリフが反響し合うような形になっている。そして二部のラストが反響することによって、一部の絶望的なラストがある種希望的な余韻を残すように変化する。
それぞれのパートのラストの主人公が何かに気づいて歩き出すような感覚がめちゃくちゃに良かった。映画自体のラストである二部のラストの極彩色の感慨も本当に好きだったけど、それ以上に一部のラスト直前、本を読む主人公が何かに気づいたように本を閉じる、一瞬画面が白く飛ぶ、過去の遺産のように聖堂が車窓からの風景として通り過ぎる、シャッターが開く、映画のパトロンだった画商が現れて主人公を大人になろうとしている人として肯定するっていうシークエンスがまじでよかった。
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