Fitzcarraldo

ウホッホ探険隊のFitzcarraldoのレビュー・感想・評価

ウホッホ探険隊(1986年製作の映画)
4.5
第10回日本アカデミー賞(1987)脚本賞ノミネート作品。

干刈あがた著の代表作で芥川賞の候補にもなった同名小説が原作なので、正確には脚本賞ではなくて脚色賞になるが、アメリカのアカデミー賞のように脚色賞が日本には見当たらない。これだけ多くの漫画原作やライトノベルやら小説やらを原作にしないと映画を作れないない状況にも関わらずだ…オリジナル脚本なんて皆無に等しいのだから、すぐにでも脚色賞を作るべきだろう。

そんな本作の脚色をしたのが森田芳光で監督は最後の撮影所世代となる根岸吉太郎。

ある映画監督と話をしていて「すいません、根岸吉太郎作品一本も見てません」と伝えた瞬間…「死ねー!!」と烈火の如く一蹴され、「とりあえず遠雷は見ろ」とお叱りを受けすぐ購入したが、まだ見ていない…ということで根岸吉太郎作品を本作で初めて鑑賞。

根岸吉太郎は早稲田大学を卒業後、日活に入社し藤田敏八と曾根中生に師事。78年に日活ロマンポルノ「オリオンの殺意より・情事の方程式」で27歳という若さで監督デビューを果たす。以後ポルノ作品をコンスタントに手がけ81年の「狂った果実」がロマンポルノにおける代表作となる。続いて前述したATG配給の「遠雷」で一般映画にも進出し芸術選奨新人賞を受賞するなど一躍脚光を浴び翌82年には再びロマンポルノに戻って「キャバレー日記」を発表するも結局この作品を最後に日活を離れ、長谷川和彦を中心に若手監督の製作集団として旗揚げされたディレクターズ・カンパニーの設立に参加する。「一人の監督の主宰する独立プロではなくて企業としてもちゃんと映画を作っていける集まりを作りたい」と太陽を盗んだ男以来何も盗まない男・長谷川和彦に端を発する。

設立して10年の1992年に惜しくも経営難により倒産してしまったディレクターズ・カンパニー略してディレカンだが設立メンバーの顔ぶれが凄まじいが、そこは長くなるので割愛する。

さてやっと物語の話を…
根岸吉太郎の作風は初めてなのでよくわからないが森田節の気味の悪さみたいなものは色濃く反映されていると感じる。先ずオープニング…磨りガラスの向こう側だけに光があり手前は薄暗いので、磨りガラスが浮いて見える。そこにチョロチョロと流れる便所の音が重なる。便所から出てきて磨りガラスに顔を近づける本山真二演じる榎本家の次男坊の次郎。モザイクがかった顔が暗闇にぬぅッと浮かぶ…なんか気色悪い…そこへ何やら声が聞こえるドアの方へ近づき耳を当てる次郎。カットが変わると録音テープがアップで映り先程から洩れている音はこの音だと分かる。そして引きのショットでワープロを前に悩む十朱幸代演じる榎本家の母の登起子。インタビューを元に記事を書いているだろうことが分かる。この録音されたテープの声、つまり母の登起子のインタビューの相手は津川雅彦。そこで再生されたテープの中で「もういいでしょ?!僕の質問は。それよりさ、あなた結婚してるの?えっ?!ほんとー本当に?!」と女好き津川サン発動!!ここで登起子が結婚してることもしれっと情報として出してから、田中邦衛演じる榎本家の主人和也からの電話で「もしもし僕だ、今度の土曜日そっちいけるよ。日曜日は子供達と遊べる。どこへ行くか考えといてくれ」と父は単身赴任しているらしいことがサラリと分かる。その電話している母を部屋のドアを少し開けて覗く次郎。電話を終えると「電話お父さん?」と物語が淀みなく前へ前へと推進していく。オープニングから僅か6カットで登場人物の関係性から職業まで見せきってしまう手腕は森田の本がいいのか根岸の演出力なのか、どちらとも言い難いが、これだけスマートで…そのスマートさが最早スタイリッシュとも言えるほどのオープニングがとても素晴らしい‼

翌日リビングでお父さんと明日どこへ行こうか?と話し合う母と息子二人。そこへ大型の客船が突如インサートされる。すぐリビングのシーンへと戻り何気ない会話をするとまた大型の客船が現れ先程よりも近づいている。リビングへと戻る…三度目には到着した客船から父が現れ、母と息子二人は父を迎えている。このジャンプアップの編集方法は中々斬新で余りこの手の繋ぎをする人はいないように思う。リビングでの家族の団欒を切り捨て御免で真っ二つに分断してはまた元に戻しては繰り返すという潔さが独特のテンポを生み出し気持ちいい。これは森田芳光のテンポだと思われる。台本を確認しないと定かではないが…
普通であればリビングでの家族団欒をオシリまで流して、大型客船が到着するシーンに繋げる編集をするはず凡人なら…このセンスを押し切ったのは編集の川島章正によるものかもしれない。

そして次のシーンをどうやって撮っているのか分からない…。渋滞中の車を少し上の視点から見下ろしているショット。ララランド宜しく踊り出す華やかさからはかけ離れた地味な色使い。榎本家が乗る車だけは赤で目立つが…ここを上からカメラが降りてきてぐーっと榎本家の車の助手席の真横まで移動してくるワンショット。榎本家の隣には大きなトラックが並走してるのでクレーンが入るスペースもないし、榎本家の前にも車が一台いて等間隔で動いている。どうやって撮ったんだ…クレーンじゃなきゃ無理だと思うんだけど…あのショット撮る為だけにあの交通量を止めれたのかも疑問だし、使われてない道路だとして車も全て用意した車両だとしても、あの一瞬のシーンであれだけの車を用意できるほどの資金もないと思うし…ララランドならまだしも。とにかく、これどうやって撮ったの?という謎かけにはスルーしないで受け手側も隠れミッキーを探す要領でドンドン見つけて映画を楽しんでほしいとウォルト目線になってしみじみ感じる。

そのあと家路へと歩く榎本家。母が村上雅俊演じる長男の太郎へと、家の鍵を放る。太郎は鍵をキャッチすると次郎へ放る。とてつもなく短く台詞もないこの何気ないシーン。こういうディティールこそが大事だと思う。キャッチボール改めキャッチキーの輪の中に父が入ってない。普段、離れ離れで暮らしている父との関係性はどこかぎこちないために、そのキャッチキーの仲間に入れないのである。また誰も父にパスしようとはしないのである。家族の関係をまたしてもスマート過ぎる表現で描いてみせる力量に舌を巻く。

子どものころの余りにも日常で些細なことの記憶なんていうのは全く覚えてないのも当然だが、このシーンを見て突如としてバーンっと自分も同様なことを兄とよくやっていたのを鮮明に思い出したのである。何気ない日常を切り取った映画だなんて、そこら中で宣伝文句のようによくに耳にするが、本作のこのキャッチキーこそ何気ない日常の代名詞だと思われる。余りにも日常過ぎて逆に誰もこのシーンに目を止めないほど…

そしてこの輪の中に入れなかった父のモヤモヤを表すようなカットに繋がる。水を張ったところで顔を洗う父を水面下からカメラが捉えるショット。水面がユラユラ揺れて心の揺れを表すかのよう。んー素晴らしい繋ぎ。
父「生ぬるい水だな…東京のは」
母「水道の水でも違うのかしら?」
父「明日どこ行くことにした?」
母「子供達と決めて下さい」

んーこの台詞は書けそうで書けないと思う。現代の邦画は妙に真面目なのか全て答えてしまうようなところがあると思う。上の三行目の台詞になかなかジャンプできないように思われる。恐らく母の質問に先ず何かしら答えてから、次の台詞へと移るはず。自分から水がぬるいと発言しておいて相手の答えも聞かず我を通す。一見ギクシャクしてるようにも感じるが、日常的な会話とはこういうものだ。決まりきった空手の型のようにはいかないもの。

余りにも日常的過ぎるが故に、わざわざお金を出して日常を見に行くかというと行かないと思う人がほとんどであるために結果…興行的に不振となってしまったのではないかと思われる。
現代から振り返って見ると、本作の劇中の子ども達と同時代の子どもとして生きた自分としては、当時のあの時代を大人目線からもう一度子どもとして追体験しているような、これぞ正にバックトゥザフューチャー宜しく過去の自分を見ているような不思議でいて変な感覚に陥る。80年代を子どもとして過ごし、そして両親の離婚をその時代に経験した人には何かグッと掴まされること間違いないので、最近昔話に花咲かせてるノスタルジー思考の人にはオススメの一本です。

田中邦衛のウホッホという咳だけは非日常的でいて、わざとらしい。
Fitzcarraldo

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