素晴らしかった。舟大工の遠藤さんのアップで、生きてるってことは、それだけで誰にとっても表現なんだと急に思った。労働も表現だったのだ。老いた者は去るものではあるけど、人は生きてる限り表現をしたいんだ。一度手放した長年の労働をまた取り戻したいと思ったとき、それがその人自身にとっての表現だと身に染みてわかるのかもしれない。生涯弟子もとらず舟大工をやめて5年になる遠藤さんと、六十の手習で何度も何度も頼み込んで遠藤さんから舟づくりの技術を受け継いだ二人。これだけ歳とってなおこんな打ち上げ花火のようなときがあるんだと、長く生きてそんな感覚をもてたら本当にすごいことだし、翻って自分がいま一体何をしちゃってるのかという気持ちになりつつも、そういう時間が収められていることが本当に素晴らしいと思った。
1300年代、南北朝時代に拓かれたという田を夫婦だけで守る長谷川さんも、三男の言葉をきっかけに鉤流し漁を再開する。3年間に渡ったという本作の撮影によって、長い闘いと暮らしのなかにハレがもたらされる。
カメラを向けられて誰も嫌がったり怒ったりしないドキュメンタリー映画を初めて観たかも。恥ずかしがってる人はいるけど皆にこにこしている。信頼されている。真摯なナレーションと真摯なゴシック体のスーパーと筆文字スーパー。
土方坑夫のうた、つつが虫除けの祈祷、田んぼ仕事でほとんど四本足歩行にまで曲がった長谷川ミヤエさんの腰、農作業の前掛けにしている米袋、均一に美しく黒くぬめる田んぼの泥、撞いた餅を素早く運び素早く手を洗う加藤さん、寝ている加藤キミイさんのそばに置かれたヤマザキのあんぱんや囲炉裏ばたで指でつままれるペヤングソース焼きそば、加藤夫妻の漫才のような会話、遠藤さんが丁寧に淹れるお茶、壁一面に貼られ経年で煤けたご祝儀袋、裁判所の玄関へ向かう女性たちの丸い背中と頭に巻かれた一張羅らしき柄物のスカーフとのんのんのんとした歩き方、昭和電工社員で唯一水俣病裁判の原告となった江花さん主催の演芸の集い、阿賀野川に吹く風には名前があることとその風で表面がふわりと薄く波立つ阿賀野川、ほとんどが遠藤さんの作ったという舟が阿賀野川の夕陽で無数のシルエット点景となるさまなど、忘れ難いショットがたくさんあるが、舟大工遠藤さんの表情の変化が何より感動した。崇高ですらあった。
でももう技術や伝承は途絶えてしまったんだろう。平成初期ってまだ昭和だったんだなとも思った。
協力人に『ぼくの中の夜と朝』の柳沢寿男の名もあった。