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道のnoteのネタバレレビュー・内容・結末

(1954年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

旅芸人のザンパノは体に巻いた鉄の鎖を切る大道芸を売り物にしていたが、芸のアシスタントだった女が死んでしまったため、女の故郷へ向かい、女の妹で、頭は弱いが心の素直なジェルソミーナをタダ同然で買い取る。ジェルソミーナはザンパノとともにオート三輪で旅をするうち、芸を仕込まれ、女道化師となるが…。

「映像の魔術師」フェデリコ・フェリーニ監督の珠玉の名作。
若い頃から何度か見た作品だが、題名がなぜ「道」なのか?ようやく分かった気がする。
幸福になるために選択すべき「道」を間違えた人々の悲劇を描いているのだろう。
年月を経ても、やはり傑作である。

口減らしに娘のジェルソミーナを僅かな金でザンパノに売る母親。
愛する母親の言い付けに素直に従うジェルソミーナ。
粗野で、学もなく芸を教えるのも下手で、ときに暴力すら振るうザンパノ。
冒頭から貧しさが人々を「道」から外していく。

さすがにジェルソミーナは嫌気が差し、彼のもとを飛び出す。
その選択は正しい。
しかし、辿り着いた街で陽気な綱渡り芸人・通称「イル・マット」と出会い、彼の芸に魅了される。

ザンパノに連れ戻されたジェルソミーナは満更でもない。
人々を楽しませる芸人に魅力とやりがいを感じてしまったのだ。
町に留まるサーカスでイル・マットと再会するが、ザンパノとイル・マットは旧知ながらも犬猿の仲だった。
イル・マットはザンパノの出演中に、止せばいいのに客席から話しかけて芸の邪魔をする。
彼の反応を面白がっているのだ。
明らかに火に油を注ぐ行為で間違っている。

ある日、我慢の限界を超えたザンパノは、ナイフを持って彼を追いかけ、警察に逮捕される。
残されたジェルソミーナはサーカス団の団長に同行するよう誘われるが、一人になるザンパノが可哀想だと残ることを選ぶ。
彼女の優しさが転機の道を誤らせてしまう。

再び二人は大道芸を披露する日々を送るが、ある日ザンパノは路上で自動車を修理するイル・マットを見かけ、積年の恨みとばかりに彼を殴り飛ばす。
だが自動車の車体に頭をぶつけたイル・マットは打ち所が悪く、死んでしまう。

するとザンパノは自動車事故に見せかけるため、イル・マットの自動車を崖下に突き落とし、ジェルソミーナを連れてその場を逃げ去る。
罪を犯し、罪を隠し、遂に人の「道」を外れたザンパノ。
イル・マットを助けることが出来なかったジェルソミーナはそれ以降、罪悪感に震えて何もできなくなり、芸の助手として役に立たなくなる。

そしてザンパノはある日、居眠りするジェルソミーナをそのままにして置き去りにする…。
それこそ石ころのように彼女を捨てる。

数年後、ある海辺の町で鎖の芸を披露したザンパノは、そこで地元の娘が耳慣れた歌を口ずさんでいるのを聞く。
それはかつてジェルソミーナがラッパで吹いていた曲だった。
ザンパノはその娘から、ジェルソミーナと思われる女がこの町に来て、やがて死んだと聞く。

罪の意識に居た堪れなくなったザンパノは酒場で飲んだくれ、大暴れしたあげく、町を彷徨う。
海岸に辿り着いたザンパノは、砂浜に倒れ込み、後悔に咽び泣く…。

本作の登場人物は、「道」を間違え続ける。
生来の優しさのためにザンパノから逃れることもせず、不器用なために彼を変えることもできず、役に立たない小石としてただ置きざりにされてしまったジェルソミーナは哀れだ。

行く先々でいざこざを起こし、大して歩み寄ることもせずにジェルソミーナを捨て、身近な人間の大切さを失ってから初めて気づく愚かなザンパノ。

ザンパノを挑発し続け、ジェルソミーナを救うこともできず、挙句の果てに殺されてしまうイル・マットもまた愚かだ。

「僕は本を読んだ。この小石だって、何かの役に立つんだ。」
だから君だって、何かの役に立つんだというイル・マットが語る比喩だけが希望として輝くのだが、本作には結果的に「道」を誤る選択をする人ばかりが描かれる。

贖罪はなされず、救いもない。
ザンパノは延々と後悔と懺悔を繰り返しながら一人孤独に生きて死んでいくのだろう。
失われた者は二度と戻らず、過ちを正す機会もない。

ああすれば良かった、こうすれば良かったのでは?と、登場人物の無念だけが残りつづける。
それは人生のいう旅の中で、日々選択を迫られる私たちに正しい「道」を選択をせよ、と今も語りかけるのだ。
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