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アメリカン・ビューティーのKのネタバレレビュー・内容・結末

アメリカン・ビューティー(1999年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

これは普遍的な一般家庭をユーモラスかつブラックテイストに描いた作品である。

本作には2組の家庭が登場する。主人公レスターを父とするバーナム家。

海兵隊大佐フランクを父とするフィッツ家。

バーナム家の夫婦仲は完全に冷め切っており、ティーンエイジのジェーンとはほとんど会話もなく、家庭は崩壊しつつあった。

一方のフィッツ家はと言うと、海兵隊フランクは古典的で厳格な規律を重んじ、典型的なレイシストであった。

フランクの厳格な性格故に妻の意思は抑圧され、息子のリッキーは表面的には父に従いつつも、裏では麻薬の売人をするなど、本心から父に従っていているわけではない。

両家の父親は表面的な父としての役目を全うするのに疲れ、"理想的"な父親とは言いがたいものとなっている。

そんな中でレスターは娘の同級生に一目惚れしたことをキッカケに、彼のこれまで演じようとしていた役目を全て放棄することになる。

仕事も住宅ローンも妻との表面上の関係も、全てに疲れ切った彼は自分のやりたいように生き、したいように振る舞う。

その間は爽快感に満ち溢れ、これまで抑圧されたフラストレーションが発散され、さぞ幸せであったろう。

しかし冷静にこれまでの自分たちの生活を思い返した時にあることに気づく。

周りの人間からの日々の支え、物質的な価値が飽和状態にある現代であるからこそ見落としがちな"普遍的"な価値、これらによって"日常"が彩り豊かなものとして担保される。

蛇口をひねれば水が出て、スイッチ一つで電気が供給され、大半の人間には扶養してくれる親がいて、一般的な教養を身につけることができる。

にもかかわらず我々は些細なことに文句を垂れ、恵まれた環境を当たり前のように享受し、人生においてなにが本当に大切なものなのか忘れていく。

かなり抽象的な表現となったが、"金"や"ブランド物"とは違い、人間の感情に強く訴えかける目に見えない価値は形容しがたいものである。

レスターはそれを自らの死の淵に気づく。

そしてフィッツ家のフランクは前述したように典型的なレイシストで、同性愛者を強く否定している。

だがそんな彼自身も同性愛者であることが分かる。

彼は自分という人間を恥じているからこそ、規律によって妻と息子を支配し、なんとか威厳を保っているのである。

レスターの娘のジェーンの同級生のアンジェラも同じだ。

彼女は普段からジェーンに"自分は男にモテる"だの"あの男とヤッた"だの、ティーンエイジが思い描く薄っぺらい"大人の女性"であることをアピールしている。

しかしそんな彼女も実は処女であり、"平凡"な人間だと思われないように日々自分という人間を偽っているのである。

本作に登場する人間はみな必死に表面的な自分を演じようとしている。

それとは対照的にフィッツ家のリッキーは父親の前以外では、ありのままの自分でいるように思える。

また彼はレスターらが気づかなかった"普遍的な価値"に美しさを見出している。

彼は"風に舞うただのビニール袋"にさえ美しさを感じている。

ここで重要なのは"ビニール袋"そのものに美しさを感じていることではなく、"ビニール袋"というどこにでもあるようなものに着眼している点である。

つまり"美しいもの"は気づいていないだけで、案外自分の周りに既にあるということだ。

ふと自分に置き換えてみるとどうだろう。

私もどちらかというとレスターのように普段は日々の生活を当たり前に享受し、感謝の気持ちも薄れているのかもしれない。

というより現代社会に生きる殆どの人間がそうではないだろうか。

表面的で物質的なものばかりに囚われて、物事の本質を理解しようとしない。

日々の普遍的で当たり前だと思っているものを"当たり前でない"と改めて思わせてくれる作品。

是非現代社会の人々に観てほしい作品である。
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