Kuuta

甘い生活のKuutaのレビュー・感想・評価

甘い生活(1959年製作の映画)
4.1
英国映画協会(BFI)2022年ベスト映画100のうち、見やすい未見作を埋めていきます。

「ネオレアリズモは生きていると答えろ」

米国から来た女優のインタビュー中、マネージャーが指示するこのセリフに「生きていると装う」今作の姿勢が現れている。

貧しい暮らしを写実的に描くネオレアリズモを撮ったフェリーニが、題材を退廃的な金持ちに切り替え、筋立てのある物語でなく、シークエンスを垂れ流すようになった今作。手法は変わっているが、見据えているものは変わらない。

▽会話にならない
ヘリコプターに吊るされた空飛ぶイエス像。ちょっと間抜けなファーストショット。追いかけて写真を撮るマルチェロ(マストロヤンニ)と、イエスを見上げる街の人々の目線の違い。ヘリの爆音で互いの声は聞こえない。

とにかく「会話にならない」映画である。目の前の孤独に咽び泣く「道」のラストが私は大好きなのだけど、コミュニケーションが取れない世界の前提は、オープニングから示されている。

美しい撮影、リズミカルな編集で、何の意味もない「リアルに見せかけた」非現実を3時間見せられる。人をインスタントに切り取るパパラッチが象徴的だ。録音された自然音を聴くシーンも、言語の違いで会話できない今作のキャラクターのような、形式的な断絶や捩れ、リアルを失い、記号化された生活を表している。

▽断絶を受け入れる
「道」ではイルマットとジェルソミーナの精神が、音楽を通じてザンパノに継承されたように見えたが、今作ラストのマルチェロの笑みは、自分の立場を自覚した、自嘲的なものに見える。

冒頭のヘリのシーンでは、ボディランゲージという記号がやり取りをかろうじて成立させていた。一方、海から上がった怪魚(イエスの対比)と目線を交わしたこの場面、マルチェロは身振り手振りすら伝わらない遠い場所で、「聞こえないこと」を受け入れて去っていく。

ラストショット、残された目線がカメラに向けられた瞬間に映画は終わる。翌年のアントニオーニの「情事」と描いているものは近いと思う。

(マルチェロはスタイナーと違う選択をしたと言える。彼はあの後もエンマと暮らすのではないか)

▽綱渡り
舞台はローマ。背景美術やロケーションには享楽と死がこびりついている。同じ画面にいるのに、時代も見ているものも違う。

歌ったり踊ったりするイタリア人の輝きは一時のもの。享楽的役割を現代で引き受けているアメリカの女優と、トレビの泉で踊る。
シルヴィアとのデート、このシーンには何の意味も伏線もないのだが、奔放な彼女の振る舞いと美しい映像、編集でなぜか興味が続いてしまう。このギリギリの綱渡り感こそが今作の魅力だと思う。こうしたバランスが、マルチェロが限界に来ている終盤のパーティーでは崩壊しており、虚しいものにしか見えなくなる。

気になったのが作中で食事を取る人。シルヴィアのピザ、屋敷の主人が食べるスパゲッティくらいで、マルチェロは酒ばかり飲んでいた。泡のように消える前の、実態のない暮らしという演出になっているのかなと。

長尺を楽しむ方法として私がお勧めしたいのは、あんまりセリフを気にしすぎないことだ。無意味な喧騒をボーッと聞き流す。場面は変わっているのに、変わらないマルチェロの浮かない表情が捉えられる。「一応喋ってるけどこいつずっと辛いんだな…」とその度に思った。

▽好きなシーン
・父と行ったキャバレーでダンサーに合図を送る場面。返事をされたようだが、やはり声は聞こえない。続く引きのフレーム内に風船が落ちてくる。精神的に病んでいるエンマを捉えた序盤と同じ構図で、作中何度か繰り返される。
この後、トランペットを吹くピエロが合図すると、彼の後ろを風船が勝手についてくるのがなんか泣けた

・マッデーレとの壁越しの会話も悲しい。結局フラれてしまい、彼女を探していたら別の集団の墓探検ツアーに巻き込まれる。降霊術で変になった人が現れるが、酔っ払ってるだけと冷たく言われる。死者とすら繋がれない中、たまたま会った人と手を繋いで一夜を過ごす

・エンマとの車乗る乗らないのくだり、デカい照明が道を照らしている。夜なのに昼のように振る舞っている倒錯というか…。

・今作で一番熱量があるのが、子供が聖母を見たと言って、大人が大騒ぎするシーンなのがまた虚しい。本気で祈る病人とパパラッチ。雨と炎に包まれた謎の祭りは最もフェリーニ感がある。
「イタリア人には超自然的信仰がある」という自嘲気味のセリフが入る。階級の違うイタリア人が熱狂に呑まれ、あっという間にいなくなる。
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