レオピン

訣別の街のレオピンのレビュー・感想・評価

訣別の街(1996年製作の映画)
3.8
gray is a tough color
because its not simple as black and white

若手と絡み期のアル・パチーノ 鼻メガネだけやめてほしかった 東国原みたいで 

ある朝NYブルックリンの街角で起こった銃撃事件で子供が犠牲に。事件の背後に何らかの不正な圧力が伺える。マフィア 警察 民主党の大物 最高裁判事 追及するのが記者ではなく市長補佐官や弁護士というストーリーが面白い。

中盤以降はキューザックとフォンダのコンビを中心に展開する。NY市長のパチーノはかやの外、だがサークル内の人物であることは伝わってくる。

6歳の黒人少年のお葬式での市長の熱弁。音消して見たらヒトラー演説かってくらいの熱。この訪問は完全にアウェイの環境で行われた。きっと成功しない、抵抗があると言われていたのだが聴衆は最後は感動の渦に。感動はヤバい

この市長、冒頭からみずから被害者の病院を訪れるとかとにかく動きがスピーディ。また警察の組合弁護士もアグレッシブに自ら仕事を取りに行く。彼を補佐するスタッフも優秀な人ばかりで会見前のブリーフィングとか政治のプロの姿がかっこよくうつった。

この辺は政治が遠い国にはない熱気も感じられた。大体アメリカでも中国でもどこだって政治家は地方から中央へと階段を登っていくのが普通。群から市・州、下院議員あるいは州知事 そしてホワイトハウスへ それがいきなり◯◯チルドレンとかって。ド素人がいきなり国政へ通ってしまう そこに熱はない 風があるだけ。

一方で政治と癒着する民間の姿も。日本だと料亭なんでしょうが、ブレックファーストミーティングで地下鉄駅新設とか金融ビル誘致とかの相談を不動産業者らを交えてやっている。明るい場所で堂々と。談合はどこでだって行われるんだ。

キーワードは「メンシュカイト」。ユダヤ語で男と男の信義みたいな。握手して抱き合ったときに伝わる何かとか言っていたが、昔の政治家もよく刎頸(ふんけい)の友なんて言葉を好んでいた。メンシュカイトが勝つか 法が勝つか。清濁併せ吞むって言葉を要領と同じ意味で都合のいいようにしか解さない凡俗にとっては関係ない言葉かもしれない。

一線を越えねばならない時また越えた時 自分にどう折り合いをつけるか 
政治家と政治屋は違う。政治家は結果責任、結果においてのみ問われる存在だ。

いわゆるポピュリスト型政治家にとってはその弁舌こそが致命的となる。自ら信じていないようなことがその熱弁によって支持を得てしまった場合、ここが一番危険。熱狂のあとに冷静になれればまだいい。(パパス市長はリムジンで沈んでいた)
今まで言ってきたことと矛盾する事態に直面したとき。そもそも最初から彼は二重基準を持っているのだから対処できない。その時が彼が弁舌のために支持を失う時だ。

ケヴィンにジョン・キューザック もう引退なさい 政治好きのルイジアナ青年にはそれを見極める才能があった 

民主党の支部長アンセルモにダニー・アイエロ ミュージカル大好きおじさん いきつけの喫茶店で突然歌いだす

ボスのザパッティにアンソニー・フランシオサ ボスは細かいことは何も言わない ただ分かるな
ウォルター判事にはマーティン・ランドー
友人エイブにデヴィッド・ペイマー


ケヴィンはパパスを引退に追いやって自らは清廉潔白な政治家を目指すのか。そうではないだろう。きっと彼と同じようにグレーの世界で葛藤を繰り返していく。その時一線を越えるポイントに気づけるか。その一線も何度も踏み越すことでグレーかつ太いものになるだろう。
だがどんな分野であれ人には賞味期限ってものがある。それを気づかせてくれる存在を大事にできるか。指摘されたら気づけるくらいの頭は持っていたい。そういう意味でパパス市長はマトモな人物であった。

政治家は信なくば立たず。何を語ったかよりも何をやったかが一番のはずだ。


⇒脚本:ポール・シュレイダー
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