ばーとん

スローなブギにしてくれのばーとんのレビュー・感想・評価

スローなブギにしてくれ(1981年製作の映画)
2.8
定住地を持たない漂流民たちが、希薄な人間関係のなかで刹那的な恋愛ごっこ、疑似的な家族ゲームを繰り返す。自らを喪失した人間たちはさながら野良猫のように、他人に依存することしかできない。誰もまともに他者と向き合うことをしない。

原作は1976年。同年に村上龍が「限りなく透明に近いブルー」を上梓。本映画は1981年公開。田中康夫の「なんとなくクリスタル」がベストセラーになった年だ。

ここでは本質的なことは何も起きない。本質から逃げて表層的なカルチャーとセックスに明け暮れる。ひたすら空虚なエニーウェア族の生活スタイルが、オシャレでカッコいいと当時の若者に支持された。あるいは自由であると。日本を覆いつつある危うい空気、そのシグナルに誰も気付かなかった。

バーでのシーンが象徴的。浅野温子が山崎努に娘のピアノ演奏のテープを聴かせる。要は本質を突き付けてるわけだが、山崎努は素知らぬふりで女を口説く。「カセットは捨てといてくれ」などとのたまう。こいつらは本気で生きられない。深刻になることはダサい。ドライにカッコよく生きていたい。でもアイデンティティが希薄なので、突然死にたくなったりする。そりゃそうだろう。映画中で彷徨いながらも身体の痛みでもってキャストに決着をつけさせる相米慎二とは確かに違う。

この映画には縦の関係性が一切でてこない。ラーメン屋のオカマの店長とバイトの古尾谷くらいか。しかし古尾谷は暴力で縦の関係を破壊する。 面倒な因習や常識に囚われたくないという虚しい願い。誰もがか細い横糸でかろうじて繋がっているだけの、地に足の着かない宙ぶらりんの生き物のよう。

映画はもちろんそうしたことに無自覚で、なんら問題提起はしていない。作品としても別段面白くはない。バブル以降の失われた30年が進行中の現在まで続く地獄の前夜の物語。
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