たそしだ

復讐するは我にありのたそしだのレビュー・感想・評価

復讐するは我にあり(1979年製作の映画)
4.2
「恨みもなか人しか殺せん種類たい」

実際の事件をもとにした作品だが、本作は犯人を批判するわけでも、擁護するわけでもない。徹底的にリアリズムを追求し、中立な目線で撮ることで、解釈を観客に委ねている。だからといって、淡々としているわけではなく、人間のあまりに複雑な心の動きや、榎津の野獣のような振る舞い、凄惨すぎる殺人に、心が乱されながらも惹きつけられてしまう映画だった。

以下、ちょいちょいネタバレあります。

榎津巌は、詐欺・強盗殺人などさまざまな罪を犯し、78日ものあいだ逃走を続ける。息をするように騙し、殺す榎津だが、彼なりの苦しみや心の揺れは存在する。榎津の幼少期や、その父、妻たちにも焦点を当てながら、凶悪な男の生き様をあぶり出す。

最近の邦画のサイコパスキャラというと、レクター博士劣化版というべきか、謎美学といっちゃった目で血のついたナイフペロ〜★的なファッションサイコパスが断然多くて食傷気味(『キャラクター』も予告の時点でまたこれか〜と思ってしまった…)だが、本物のサイコパスは、本作の榎津のような人間だろうと思う。パチンコをする金がほしいから、その辺にいた人間の大事な金を騙し取る。人を殺して血塗れになった手を小便で洗い、その横の柿を盗んで食う。たまたまタクシーで同席した人間の家に上がり込んで殺害し、死んだ人間の服を身につける。人を害することに、いっさいの良心の呵責がない。まるで野獣だ。
しかし、榎津はクリスチャンなのだ。信仰とは最も遠いような男なのに。『復讐するは我にあり』というタイトルも、聖書の引用である。

映画を最後まで見ても、榎津を理解することはできない。榎津の唯一の理解者は、同じく敬虔なクリスチャンであった父親だろう。
二人は、まったく正反対ながら、鏡合わせのように描かれる。
榎津の父は、榎津の妻(つまり義娘)からの好意に気づき、自らもその欲望を抱えながらも、神を裏切らないために、ほかの男を当てがう。いわば、強烈な偽善者だ。榎津はそれを批判し、父親は自分も巌と同じような人間だと言う。

榎津が騙した旅館の女将が、榎津の正体を知ったのちも彼を庇い、そこにはどうしようもない愛が確かに存在したように見える。
彼女の薄幸を知り、親切にもしてやった榎津が、彼女を手にかけた理由は何だったのか。明確な答えは示されないが、あれはもしかすると榎津なりの優しさだったのかもしれない。このまま生きていても幸せになれない女を、自らの手で殺すこと。それが彼にとっての正しいおこないだったのかもと思う。

処刑された巌の骨を父と妻で撒くシーン。蒔かれた骨が海に消えずに止まって見える。それを見て動揺する二人。まるで巌の消えざる執念のようで恐いラストだった。
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