「おばあちゃんは違うものになってる」
認知症を患うエドナが失踪し、その家を訪れた娘ケイと孫サム。エドナはその後無事に見つかるが、どこか様子がおかしい。
家にまつわる不可思議な現象も引き合いに出されているが、結局のところ核にあるのは、老いて変貌した身内を愛せるか? ということだと思った。
老いによる衰えや認知症が引き出すのは、多くの場合、人間の醜い側面だ。それは時には愛する親でさえも怪物に見せるだろう。
ケイが見たことのないはずの曽祖母(認知症の悪化に気づかれず放置されていた)の死体の夢を見るのは、エドナをどこか荷物に思って遠ざけていたことへの罪悪感ではないか。
サムが閉じ込められた家の迷宮(記憶の断片と年代や配置がぐちゃぐちゃの部屋が連なる)は、認知症のエドナの見る景色なのかもしれない。
クライマックスで、エドナの書いた「私は愛されている?」のメモと見捨てられた曽祖母の象徴ともいえる小窓を目にし、ケイは逃げるのを踏みとどまる。
化け物としてのエドナの皮をケイは丁寧にはがす。その中から出てくるのは変わり果ててはいるが、穏やかな"何か"だ。これはきっと、エドナの本質なのではないか。ケイは化け物として一度は見捨てようとしたエドナに向き合い、中身を慈しむ。
画面上は幾多の怪奇現象が起こっているが、登場人物たちのセリフだけ見れば、変わり果てた身内の介護に疲れ果て、逃げ出そうとする人間のそれにもぴたりとあてはまる。
荒れ果てた介護生活の中で、ちらりと見える愛した人の本質。本作のラストカットのように、それを抱きしめるのが、「私は愛されている?」への答えであり、介護というものなのかもしれない。
原題のrelicは遺物、遺品、遺体という意味のほかに、面影という意味もある。最後に化け物の中から現れたのは、愛した母の面影なのではないか。
そして、サムがケイの肩に見たアザは、きっとケイも同じように老い、サムが悩まされる日が来るだろうというメタファーに思う。
映像的にきちんとホラーでキャッチーながら、そこに逃げず、老いた愛する人とどう向き合うかを真剣に突き詰めた素晴らしい作品だと思った。