茶一郎

黒い十人の女の茶一郎のレビュー・感想・評価

黒い十人の女(1961年製作の映画)
4.3
 漆黒の画面に、ぼぅーっと女性の顔が一人ずつ映っては消えていく。間に一人の男。また女性の顔が映りは消え、映りは消え……このオープニングの宣言通り、この映画は女優の、女性の映画である。
 市川崑監督の代表作として再評価の流れが記憶に新しい、社会風刺サスペンス・ミステリー。また、永らく公私共に監督のパートナーである脚本家・和田夏十氏の珍しいオリジナル脚本作品としても記憶に留めておきたい。

 テレビプロデューサーで無類の女性好きである風松吉には驚くべきことに、妻と9人の愛人がいる。風のダメ男っぷりをついに見かねた10人の女は徒党を組み、風への逆襲を企んだ。
あまりにもフィクショナルすぎる設定だが、これは「主体性がない愚かな男性の一方、強い女性」という市川崑世界に頻出の人物配置が爆発した結果とも言える。さらに、今作におけるその「愚かな男性」の風は、どうやら性行為はできるが無精子らしく子供が作れない体であるらしく、いよいよこの『黒い十人の女』の世界では「男」はその男性としての機能さえ失い、記号としての「男」しか残っていない。その殆ど生物的な男の役割を失っている「男」が「男である事」を保つためには、社会・会社内で地位を上げ、名誉を獲得する事でしかないのだ。今作の痛快さは、この残った「男・風松吉が男である事」すら許さない女性の逆襲方法にあった。
 白黒の「黒」が異様に強調された映像美や、普通のサスペンス・ミステリーだと思いきや突然、今までのリアリティラインを超えてくるストーリーテリングの遠近感、どちらも異常である事に魅力があるのだが、今作が時代を経るごとに再評価されているのは、その社会風刺性にあると思った。それは劇中のあるセリフに込められているが、要するに、現代社会の仕組みに一度身を置くと「仕事」をこなすことは上手くなるかもしれないが、人間という生物が生物同士で触れ合うことはどんどんと下手になっていくということだ。
 SNSが発達し人と人とが24時間触れるという状況になっていても、結局、そこでは真の意味では心と心とが繋がっていないのではないか。と、こんな何百回と聞いた平凡なことを改めて文字にしたくはないが、この状況を今から50年以上も前から警告していたのだから凄い。おそらく、今作は時を過ぎれば過ぎるほど、ゆっくりゆっくり奥の方まで突き刺さる映画になるだろう。何よりも、こんな説教臭い事をスタイリッシュかつ変態的な語り口と映像で、痛快に見せ切っていることが凄いのだが。
茶一郎

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