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汚れなき祈りのいののネタバレレビュー・内容・結末

汚れなき祈り(2012年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

2005年、ルーマニア正教会修道院で実際に起きた事件に想を得て(刊行された2冊のノンフィクション小説を元に)制作された映画とのこと。悪魔祓いの儀式で起きた事件


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小学生の頃から孤児院で育った二人の女性。
ドイツで暮らしていた女性アリーナ(バスに乗っている最初から少し様子が気に掛かる)が、ルーマニアの修道院で暮らす女性ヴォイキツァを尋ねてくる。今度はヴォイキツァと共にドイツへ出て行くために。
ところがヴォイキツァは修道院がすでに安寧の地となっているようで修道院を出て行くつもりなど毛頭ない。
そこから生じる葛藤やゆがみや誤解や畏れ。


故意に貶めようとした人など何処にもいなくて、良かれと思ってした行為が結果として最悪を招いてしまうこと。この映画は宗教や信仰を否定したわけではなく、誰にとっても起こりうることを描いているのだと思う。


わたしの勝手な思い込み
数ヶ月前に観た『さらば、わが愛/覇王別姫』で言うと、程蝶衣(レスリー・チャン)がアリーナ、段小樓(チャン・フォンイー)がヴォイキツァ、そしてこれはちょっと違うとは思うけど菊仙(コン・リー)がコミュニティ(or正教会or信仰)ということになるのだろうと思う


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映画を鑑賞している側からしたら、以下の2点はちゃんと見える。

①アリーナは、最愛の人ヴォイキツァと共に生きられたらそれだけで良かった。ふたりだけで此の地を出られたらそれだけで良かった。アリーナが望んでいたのはそれだけ

② ①に対してヴォイキツァは、アリーナの想いを薄々わかっていながらも、それを真正面から受け取れなかったのだろうと思う。きわめて中途半端な態度が(曖昧な生ぬるい優しさに似た残酷さが)結果として最悪を呼んでしまう


でも当事者たちにとってはそこが見えない。ふたりも、周りの人たちも。丘の上にあるという修道院は寒村に位置しているのか、とても閉鎖的にみえる。この教会は、壁に絵がない?とかで、ルーマニア正教会から正式ななんかの認定をうけることができないらしく、それが神父への見えない圧力ともなっている様子。修道女たちの群像も、解析したらきっとひとりひとり違うのに。


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演出の妙ということで、気にかかったのは以下の2点

・アリーナから愛を求められていることをヴォイキツァが理解しながらもわからないふりをしたと思うところ・・・初日の夜、消毒剤?でアリーナの身躯を腹部から清拭していて、胸部にたどり着く前にその手をとめる


・アリーナの愛を(語弊があるかもだけど)わかっていながら弄ぶように感じた瞬間・・・病院のベッドで、ヴォイキツァが黒い服の大きなボタンを全部外す←ここでこの場面は終わるけど、ある意味アリーナを誘っているかのようにも感じ、ヴォイキツァの無自覚な残酷さをあらわしていると感じた。


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クリスティアン・ムンジウ版「悪は存在しない」なのか、「善意は悪を伴ってしまう」なのか。「汚れなき祈り」というタイトルの意味は心にとどめて自分なりにもう少し考えてみたい。まさか最後はギャグじゃないですよね? ←いやいや、邦題つけた方は、最後のシーンまでみてこの邦題にしようと決めたのでしょう。
いの

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