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そして父になるのしおえもんGoGoのレビュー・感想・評価

そして父になる(2013年製作の映画)
3.5
昔一回見て、改めて鑑賞。
この映画はどう消化していいのかちょっと困る作品で、子供の取り違えから端を発して親子とは、家族とはを問う良作として感動すると同時に、なんかモヤっとしたものが残る。
好きな映画かと言われるとあんまり好きじゃない。


以下まあまあネタバレあります。


私は子供は居ないけれど、居ないなりに自分が親の立場ならどうするかを考えさせられる。
心情的には育てた子がかわいいに決まっている。でも自分の血のつながった子が他所いるのだ。どっちの子を育てても、成長の中で思い通りにならない時に「あの時違う選択をしていれば」と後悔しないと言い切れるだろうか。
「選ばなかったもう一つの選択肢」が実態を持って存在しているのはさぞしんどい事だろうし、琉晴を可愛く思うと慶多を裏切っているようだと言ったみどりの気持ちは分かる気がする。

母親は妊娠中から母親になっていくのに対し、父親はどうやって父親になるのだろう。良多が思わず漏らした「やっぱりそうだったんだ」というセリフはDNA鑑定しない限りは父親である確証が持てない男のディスアドバンテージを表すようで印象的だ。
自分の能力に絶対の自信を持つ良多は、今回の一件が発覚しなければ「本当に俺の子か?」とか「やっぱり田舎者の妻の血筋か?」とか思ってたような気がする。
でももしみどりの立場で私が慶多を育てたとして、何か落胆することがあった時に同じように「やっぱり自分の子じゃないから」と思わない自信は無い。

そんな良多自身も自分の父親とは確執があり、「結局は血だ、いずれお前は俺に似てくる」と言われてうんざりするくせに、同じ事を考えている。

一方の母親たちはやっぱり妊娠出産という共通体験を経ている事で子供への想いも苦悩も共感しあえるし、河原での抱擁は胸にグッとくるものがあった。
「似てるか似て無いかを気にするのは子供と繋がってる実感が無い男だけ」というセリフは確かにそんなものなのかもしれないし、どちらの子にも分け隔てなく接している斎木雄大は心の大きな人だ。

最初は慰謝料の話ばかりしている斎木夫妻に引くのだが、これは琉晴を手放すという事を全く考えていないからこその発想なのだろう。

なかなか懐かない琉晴に初めて子供としっかり遊んでみる良多。楽し気にしているのにやっぱり親を求める子のひたむきな思いに触れ、カメラを通じて自分がいかに慶多に向き合ってこなかったかを思い知って涙するシーンはもらい泣きしそうになった。

また、さすが是枝監督だけあって子供達の演技の自然なこと。
終始慶多が幼く可愛いのだが、一番胸に迫るのが野々宮家に引き取られた後の琉晴の「なんで?」と聞くシーン。あの怯えと必死さと、本当に意味が分からないというあの表情は一体どうやれば引き出せたのだろう。
見ているこっちがたじろぐ程だった。

よく考えれば家族の最小単位である夫婦は当然赤の他人なわけで、その二人が家族になっていく事が当たり前なのだ。親子だって同じはずなのに血の繋がりが重要になってしまう。
子育てとはそれほど過酷なものだという事なのかな。


とここまではいい話だなと思えるのに、じゃあ何がそんなにモヤっとするのかというと、この作品は父親になり切れていなかった良多が父親になる話だから仕方ないのだが、あまりに良多に対して一方的ではないかと思うから。

一番私がモヤっとするのが、今回の件で父親として成長するのは良多だけという所。確かに良多は人の気持ちが分からないマウント気質で上から目線の偉そうな男だし、父親としても自分の理想を押し付ける厳しい親だ。素直に子供を褒める事もしない。

それでも野々宮の教育方針が間違っているわけでは無いし、良多自身も幼稚園の友達とのトラブルも妻から聞いてちゃんと認識し、そこそこ子供と遊んでもいる。改善の余地は多々あれど、彼は彼なりに慶多を愛情をもって大事に育てていたように見えるのだ。

一方のリリーフランキーは、そりゃ子供にとっては賑やかで楽しい父親だろうけど、子供達は躾も行き届かず、多分勉強より楽しく遊べ的雰囲気。子供が小さいうちはいいけれど、斎木家としても野々宮家を見習う点はあるのではないか。
まあどっちが子供にとって幸せかは分からないけど。

子供達を入れ替えた後も、元の家なら叱られたことも注意されず、兄弟が居て毎日がお祭りのような家に行った慶多と、にぎやかな家から急に一人で厳しい躾けの家に入れられた琉晴。そりゃ琉晴が馴染めないのは当然だ。
斎木が子供のおもちゃを直せる電気屋という設定も、あの年頃の子供にとっては分かりやすい頼り甲斐のある父親像に映るだろう。

斎木夫妻だけでなく、良太の継母、看護師もみんな血の繋がらに子供を分け隔てなく受け入れているように描かれており、良太一人が器の小さな男のポジションに置かれる。

色んな描写が、あまりにも作為的なまでに良多に不利に描かれ過ぎているように見える。
斎木雄大だってそんなに全てが良いわけじゃないはずだし、家庭の雰囲気の相性は子供によっても違う。慶多だって斎木家の雰囲気に馴染めない事があって当然だろうが、それも描かれない。

また両家の子供達に対する態度も、なぜ家を入れ替えるのかの説明もしない。確かに彼らはまだ小さいけど、何も言わないままではまるで親から捨てられたみたいじゃないか。
一番可哀想なのが琉晴が家出した後で取り返しに行った時に、良多が慶多を気に掛ける様子も無いシーン。
でもいくら良多が父親として未熟でも、これは無いと思うのだ。

2人とも引き取りたいと無造作に提案して斎木家を怒らせた良多が、ここで痛烈にしっぺ返しを食らうのは痛快ではあるけれど。

「良多が父親として成長する」ための設定、ストーリーという感じがどうしても見えてしまう事が、私がこの映画を好きになれない点だと思う。

まあ私が「子供にとって愛情も大事だけど、経済力も結構かなり大事」という考えを持ってるから余計にかもしれないが、良多が未熟で、斎木雄大が理想的な父親のように一方的に描かれていることがモヤモヤするのだと思う。
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