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マーガレットのイエスのレビュー・感想・評価

マーガレット(2011年製作の映画)
5.0
 リサは自らが招いたバスの人身事故によって死なせてしまった女性から、リサと同名の娘へ「電話をかけて」と託される。このとき、血まみれになったリサはまるで出産したての赤子のように描写される。それはまさにリサが、この女性から生まれたことを暗示し、同名の娘として生き直すことが解釈できる。
 その後、リサの母親ジョーンの劇中での描写は母ではなく少女として描かれる。それはつまり、自慰行為や彼氏とのデートであり、実の娘が苦しんでいることに向き合わない様子があるべき親の姿勢、立場を退行させていることを示す。だからこそ、親を頼れない子は自身が親になるしかないことで、同時にリサは唐突に処女損失と懐胎をし、母親とは逆行するかたちで、リサ自身が母となる。ちなみに不貞の相手となる同級生が電話で会話するシーンには、彼の背後に精子の落書きがあり、明らかに父になることが明示されている。物語では「電話」という存在が、人が聞き、人が答えることを前提に成立するもの、言葉を介するものとして度々登場し、様々な重要なシーンで鍵となる。
 物語は罪悪感に苛まれる主人公リサの日常を変えていく。教室での授業や母親ジョーンとの会話は噛み合わない。これは、なぜ起こるのか。主張する者同士のぶつかりだろうか。いいや、これはそもそも相手に向けて言葉を出しているのではないのだ。禅問答という表現が適切だと思う。リサは嘘への言い訳を、言葉ともつかないヒステリーで罵りまくる。議論にはテーマがある。だが、リサは別のものを引き合いに出し、教室を混乱させる。周囲を辟易させ、誰の意見も聞き入れようとしない状態がつづく。
 リサの母親ジョーンは女優の仕事をしている。劇中では、演劇の舞台上で母親ジョーンが「1つだけ言わせて」の場面が、何度も繰り返し描写される。強調するかのように。この台詞が物語全体の根幹を代弁する。人の話を遮ってまで、自分の主張を通そうとする登場人物たち。弁護士が注意する「最後まで話を聞いて」。何か発言することで、発言するだけで不安に陥る物語。冒頭のオープニングでゆっくりと流れる美しさはどこにいったのか。物語の中盤では、リサの後頭部だけをロングテイクで見せる伸びやかで平和な映像が同じく流れるが、彼女が言葉を発さなければ、その脳裏で混沌とするものは無いに等しいといえる。解釈するならば、発言が平和を乱すのだ。それは乖離するもの。一見すると、退屈な映像。けれど、リサのまくし立てるような激昂にうんざりしたこちら側にとっては、その台詞のないシークエンスは救われる休息なのではないだろうか。
 リサの実の父親は作家をしている。想像を必要とする仕事であり、リサが帽子を求めるきっかけになった人物である。元をたどれば、バスの事故はリサが起因するが、離婚した彼が名残ある娘との縁をきっぱりと切れば、因果にはならなかっただろう。ちなみに、帽子とは思考のメタファーである。帽子を被らないからこそ、思考はだだ漏れとなり、リサのむき出しの感情は隠すもののないものとして捉えることもできる。
 悲劇を演じるリサは弁護士の協力もあって、事件の決着を迎える。死なせてしまった女性が遺言のように残した「電話」を三者の真ん中に置いて。しかし、罰を与えられないリサは荒れ狂う。話を遮って。だが、関係者ではないと指摘される。死なせてしまった女性の娘と同名であることの思い違いを、思い知るかたちで。どんなにあがいても、彼女は当事者ではあるが、親族として一切関係ない人なのだ。
 悲劇は発言しなければ、悲劇の人だと他者からは見えない。リサは関係をもった学校の数学教師に道端で告げる。「中絶した」と。教師はいっしょにいた同僚と困惑するが、その言葉の真偽よりも早く、相手にしない。かまってほしいかのようなリサは、撤回するように自らの言葉をなかったことにする。去っていくリサの姿を見て、教師と同僚は「なにあれ?」と気にも留めず、この物語がもつ騒ぎ立てることへの冷静な視線を教えてくれる。彼女の一大事など、他者からすればどうでもいいのだ。
 物語は終幕へ向かう。母親は彼氏を失い、その代わりとして娘のリサがオペラ観劇に誘われる。大人の身なりになったリサの後頭部が再度、流れるように追われる。平穏な映像と同じ静けさで。リサは母親と合流する。しばしの沈黙のなか、舞台が開演となる。聞く耳をもたなかったリサは黙り、耳を貸す。こちら側は、母親が彼氏との観劇中の私語で注意された場面が無意識に浮かび、物語のなかでのリサの立ち振る舞いを知っているからこそ、いつ「遮って話すか」にざわつく。
 しかし、リサは涙を流し、母親ジョーンは娘を抱きしめる。(このとき、彼氏のいない母親ジョーンはまさしく親に戻っている)リサは流すべく涙をやっと落とし、正常な感情を多くの時間をかけて露わにする。彼女は女という性をもつが、女性である前の少女である。決して大人ではない。どんなに成熟した身体や大人びた発言をしても、まだ子どもなのだ。こちら側を不快にさせる喚き散らしは、対処の分からない子どもなら尚更だ。未熟な者。だから、親が必要なのだ。離婚し、子供の人生よりも自分たちの人生を優先した二人(母親は新しい彼氏を、父親は新しい彼女を)が対話をしてくれなかった結果として。
 舞台の主役を見つめるリサ。言葉はない。むしろ、言葉を飲み込み、舞台の主役ではないリサは、観客の一人として映される。それは、関係者ではない姿にも重なる。悲劇のヒロインではないのだと。そして、自身の罪を言葉で取り繕うのではなく、受け入れたのだ。そう、黙って罪を受け入れたのだった――

※補足1
 題名の『マーガレット』(原題:MARGARET)は、1590年に制作されたウィリアム・シェイクスピアの史劇『ヘンリー六世 第3部』に登場する王妃マーガレットから。劇中のオペラや、登場人物の位置付けを照らし合わせると、物語の背景や心理変化がより深く理解することができる。

※補足2
 リサの母親ジョーンの名前の由来は、人物像の背景が酷似していることから女優ジョーン・クロフォード(Joan Crawford)からだと推測できる。

※補足3
 こちら側がリサを女性=大人と捉えるか、少女=子供として捉えるかで、彼女の気持ちへの寄り添い方、共感の違いが大きく変わってくる。リサに嫌悪や不快を感じる場合、大人と子供は同じ視点で考えることが難しいことをこちら側は再認識するべきだと個人的に思った。思い違いのレビューが多く、この同一視は映画に限らず、親になったときに子への接し方に現れるので、危惧すべき大人が増えているのだと。寄り添うには、相手の立場を忘れないこと。後生のために。
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