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モアナと伝説の海のイエスのレビュー・感想・評価

モアナと伝説の海(2016年製作の映画)
5.0
 父親に導かれるままに、モアナは孤島モトゥヌイで生きるための働き方、伝統を教えられる。だが、幼少期の頃よりモアナは家業よりも海に興味を示し、行事や仕事の隙を見ては抜け出し、海へと臨む。そこに、モアナが求める「何か」があるかのように。ある日、島の近海から魚が消え、作物も穫れなくなってしまう。みずみずしいココナッツの中は真っ黒に、水気は消失。モトゥヌイで生きる人々は困窮する。モアナは解決のために「心」を返還する旅に身を投じ、念願の海へと出航する――
 モアナにとって、海とは何だろうか。まだ歩くこともおぼつかない幼少期の頃のモアナは、砂浜でヤドカリを助けたことがある。ヤドカリ(宿借)は読んで字のごとく、家を借りる者の存在、象徴とされる。島に生まれた赤子のヤドカリはカラスに命を狙われるが、小さなモアナは必死にヤドカリを守り、海へと導く。父親とは対照的なかたちで、外界へ導く者として。自らが生まれた集団を家庭とするなら、海は社会ともいえる。だからこそ、父親の言動が物語のテーマを浮き彫りにする。当初、モアナという女性の未来は家庭に入ることが第一とされ、外界(海)へ出ることは頑なに妨害される。海とは危険なところであると。しかし、気持ちを高らかに歌い勇むモアナは、その勢いまま初めての出航を試みるが、失敗。挫折を味わう。この場面でモアナと同乗するのがペットの豚のプアによって、英語表記でPoorという名前が貧しさを示す。社会という海へ漕ぎ出すことは、働くこと・仕事に出ることであり、その貧しさを初めて味わったと描写される。島に引き返したあとのプアは、恐怖に怯え、モアナはその一歩を後悔する。海とは、無限に広がる社会でもあり、厳しい場所なのだと。
 女性が社会に進出する姿をテーマとしている物語だからこそ、登場人物の名前にも解釈が生まれる。ハワイ語で「太平洋」を意味するモアナという名前。英語の発音と物語のテーマを踏まえるならば、それは「more(もっと)」+「na(女性であること=女性名で付く音名)」という意味が加わる。モアナという女性の象徴が、もっと海という社会に出たいという現れであり、モアナという一人の女性だけの葛藤ではないことがわかる。「海に選ばれし者」を告げられたあとの本当の出航の際には、モアナの母親は彼女の旅の支度を引きとめず、願いを託すかのように見送っている。劇中では、父親と娘モアナのやりとりが集中して描写されているだけに、この場面だけでも母親の存在が十分に大きく映る。同じ女性であるからこそ、彼女の生き方を尊重することで、海に出てもまた帰って来れる場所なのだと安心を与えている。決心は後ろめたさではない。悲しいものでも、許されないものでもない。一人の女性の勇気ある行動なのだ。失敗よりも挑戦を選んだ、自らの生き方を自らで決めた船出なのだ。母親の僅かな言葉と抱きしめる行為が、モアナの迷いを消し、その船出を後押ししたのだ。
 女神テ・フィティの「心」を盗み、溶岩の怪物テ・カァの怒りを買ったマウイ。幽閉されたマウイのいる島へ、モアナと船は難破されるかたちで流れ着く。二人は邂逅する。英雄と豪語するマウイは、モアナを自分のファンだと思い違いし、強引に彼女のオールを奪うとサインを刻む。彼が自身の姿を自在に変える能力を持つ武器「神の釣り針」と、ハートを刻印にして。劇中では、釣り針を取り返したマウイが意気揚々と変身をするが、オープニングの変身姿とは異なり、小さく未熟な状態(精神的未熟さ)として描写される。彼の言葉に物語と重なる一言がある。「なんにでもなれる」海という社会で様々な姿になり、生きることは、つまり職業選択の自由とも解釈できる。社会を築き、開拓していく者がマウイなら、彼にとっての釣り針は基本的人権といえるのではないだろうか。
 マウイの言葉には男尊女卑が随所に見られ、差別的とも受け取れる思想が自身の存在を通して、モアナの父親とだぶる。だからこそ、生きるための糧を得る道具の釣り針がサインとなって、モアナのオールを同一化させる。社会的な視点でモアナのオールを捉えるなら、社会という海に参加し、意思をもって進む道具である。それは、この物語のテーマが何を目的とし、オールによって向かい、得たいのかにつながる。「心」の返還。女神テ・フィティが社会的に剥奪されたものを返す旅。モアナが選んだ生き方、選択の自由を手にいれるための女性の権利、社会に漕ぎ出すためのオールが想いを具現化する。また、船を漕ぐオール(Oar)は発音でオール(All)にも掛かり、なんにでもなれる釣り針と、すべてを意味するオールが同一のメタファーを秘めていることもわかる。
 必死の説得によりマウイは共に航海を始める。だが、マウイはモアナがまともに船を扱えていないことを知る。航海の術を教わりたいと言うモアナを尻目に、マウイは教授も協力も不要と帆を張る。しかし、ココナッツの海賊一団カカモラが行く手を阻む。襲撃は二人が協力することによって難を逃れ、一本のバナナを分かち合う勝利でお互いを認め合う。つづけて、船の扱いの教えを請うモアナだったが、マウイは言葉よりも先に行動し、役割を譲らない。すると、海賊団の一矢が彼の背中に刺さる。マウイは初めて口(言葉)だけを頼るしかない状況となり、モアナは指示を仰ぐ。船の扱い方は、同時に働き方ともいえる。技術の伝授。マウイは女性だからできないという決め付けを忘れ、ちゃんと言葉で伝える。社会という海で生きるための方法を性別に関係なく。教授する最後の描写でマウイがイタズラでもよおすが、ここにつながる一言がある。モアナが海に向かって「おしっこ」と揶揄する場面だ。もよおすことを指す2つの意味が、海というものが男性社会で成り立っていることを暗示する。
 独り善がりのマウイの人格が決してそうではないと、こちら側に教えてくれる場面がある。何気ない一瞬の行為が教えをくれる者と象徴する。船を離れる際、ニワトリのヘイヘイに必ずエサを与え、食べる位置がわからないときは正してくれる。島でのヘイヘイは、認識が劣っているために、死んでもおかしくない行動を度々とる。困った存在に対して、モアナも含めて周囲は躾をしていない。教えることすらせず、度重なる災難をヘイヘイは悪運のよさだけで生き抜いている。ヘイヘイが人間なら、障がいをもった者とも飛躍できる。マウイがエサを必ず与え、些細な手引きで生きることを教える場面には、自分たちが戻ってこなかったとしても一人で生きていける手助けをしたのだとわかる。ポリネシア神話において太平洋に浮かぶ数々の島とそこに住む人々を創造したとされる神の名前マウイ。彼の名前を英語の発音と物語のテーマで翻訳するなら、My(自分なりの)+Way(方法、手法)とも読み取れる。モアナに働き方を教え、ヘイヘイに生き方を教えたように、マウイは男性の象徴ではあるが、交流を通じてモアナの父親とは対照的な人物として成長していく。光が差し込む幽閉された洞窟が子宮に似ているからこそ、共に社会という海を進む過程が男性の象徴であるマウイの成長譚でもあるのだと教えてくれる。
 テ・フィティの島が近づき、二人の前には溶岩の怪物テ・カァが立ちはだかる。マウイは単身で戦いを挑むが、大切な釣り針にヒビが入り、退散する。挫けたマウイは逃げ出し、モアナは「心」を海に沈める。「海に選ばれし者」を降り、堪えきれずに願いを誰かへと託すかたちで。「私ではない誰か、ふさわしい人」に向けて。そのとき、エイに姿を変えた祖母タラが現れ、彼女を再度、母親がしたように後押しする。生き方を肯定してくれる。目を覚ませと、頭から水をかけて。劇中では数度、モアナが挫けそうなときや、決心する直前に頭から水をかけられる描写がある。独特のその時代のウェーブがかった長髪は、水を浴びたことで現代女性のようなストレートになっている。まるで、こちら側の女性がする自由を謳歌した髪型のように。
 心を決め、弱点である海水を武器に、モアナは溶岩の怪物テ・カァを出し抜く。炎をまとったテ・カァは何かに怒りをぶつけるように攻撃をつづけ、モアナの船はピンチを迎える。そこに戻ってくるマウイ。間一髪のところで、マウイはヒビ割れた釣り針を惜しむことなく、彼女を助ける。二人が協力して海賊の一団から逃れたように。
 テ・フィティの島には「心」を返す場所はなかった。モアナの見つめる先、溶岩の怪物テ・カァの胸に「心」と同じ模様に気づく。テ・カァこそが心をなくした女神テ・フィティだと。クライマックスの直前にモアナは悪夢をみる。生まれ故郷のモトゥヌイ島が真っ黒に侵食されるが、色を失った世界とは多様性の消失である。色のない世界。それは、ことの発端を最初に知らせたココナッツの中身にも通じる。水のない真っ黒な闇だ。それは炎で焼き焦がれた灰であり、テ・カァの怒りだ。マウイが盗んだもの。女神テ・フィティがモアナと重なり、女性の自由と権利を一致させる。旅が、モアナとマウイを成長させ、社会の在り方を再構築する。「心」を取り戻した女神テ・フィティ。豊かな緑に包まれた存在が、島に姿を変える。二人は見届け、目的を果たす。
 ジェンダーフリーという言葉がある。社会的性別(ジェンダー)に対する一般通念にとらわれずに、自分の生き方を自己決定出来るようにしようという「固定的な性役割の通念からの自由を目指す」思想、及び、この思想に基づいた策動を指す言葉だ。モアナという女性の象徴。マウイという男性の象徴。自由と困難を示す、社会という海。タイトル『モアナと伝説の海』(原題:MOANA)は女性の生き方と働き方を、航海を通して教えてくれる。支え、協力し、教え合い、言葉を通じて互いに成長する物語。劇中に恋愛の要素が一切ないのは、二人が大人になった瞬間で終わるからだ。(第一、そこに気持ちを割いてる場合ではない)純粋に男女という性別をもった、交わらない者。相互理解と共感が、この物語が辿り着きたい目的地なのだからだ。
 モアナを後押しした同性の女性、母親と祖母、そして女神テ・フィティの姿が言葉少なに伝える。決めるのは自分だと。選択する自由、生き方の自由を奪う者には怒っていいのだと。主張し、前進することを恐れず、家庭(内側)に留まらないでほしいと。好奇心の赴くままに生きてほしいと。けれども、男性は敵ではなく、共に生きるパートナーでもあるということ。海を旅した二人が、お互いを認めて尊重することの大切さをこちら側にも教えてくれるのだ。
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