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ネオン・デーモンのイエスのレビュー・感想・評価

ネオン・デーモン(2016年製作の映画)
5.0
 首から下に垂れる赤い液体。ジェシーの未来を予見する描写が物語のオープニングを飾る。モデルの宣材写真を撮り終えたジェシーは鏡台を前に、カメラマンの青年が思い描く美を拭うが、肌を伝う赤い塗料は明らかに血を見立てたものであり、青年の願望には劇中の女性のなかで唯一、16歳のジェシーにしかない「処女性」がその血に意図されている。
 そこに、拭うジェシーを見かねて、惹きつけられる蝶のようにメーキャップアーティストのルビーが現れる。同性間で交わされる会話は表向きは何気ないものの、ジェシーはルビーに誘われるまま、モデルたちの集まるナイトクラブへと誘われる。
 激しい閃光と暗闇のなかで浮かぶ、生け贄のように祀られる誰か。ジェシーは体験したことのない感情を覚え、悦楽の表情を浮かべる。(ルビーはこの時点で、ジェシーを供物として見ていたとも解釈できる)
 女性用トイレにシーンが変わる。ルビーに加えて、モデルのサラとジジが鏡台の前に立つジェシーを見つめている。鏡のなかのジェシーにサラが問いかける。「整形は? 男性経験は?」興味の対象になったジェシーは答えに詰まり、その純粋な身体を見抜かれてしまう。サラはつづけて、ジェシーが使うリップクリームの商品名を「フルーツ」と揶揄する。
 物語はジェシーが三人の女性、ルビー、サラ、ジジに食されることで結末を迎える。女性用トイレで揶揄された表現は、レストランでの注文の際にも因んでいる。彼女たち三人の食事はモデルらしい低カロリーな注文がなされ、そこでも「フルーツ」という言葉が発せられている。ほぼ水分で構成されるフルーツ(果物)。つまり、食されるジェシーとは、英語表記でJesseであり、発音ではJuicyと重なる。そして、Juicyの意味には「水分の多い、汁の多い」が含まれており、これこそがクライマックスでの屋敷の空のプールに結ばれる。
 屋敷の空のプールと、ジェシーを食し満たされたサラとジジが撮影される満杯のプール。2つのプールが彼女たちが満たされたことを暗示する。しかし、満たされたはずのジジは、罪の重さに苛まれ自らの命を絶つ。サラはジジが吐き出した片目を拾い上げ、飲み込む。一方でルビーは、不完全な消化を迎え、サラのみがジェシーをちゃんと取り込んだことが三者三様というかたちで描かれる。
 ラストシーンでは、枯渇した広大で無限につづくかのような大地を前に、途方に暮れるサラが映る。劇中では、鏡に映るシーンが多用されるからこそ、女性の前方にある対象物が、自身の内面性を浮き彫りにする。一歩、一歩、どこに向かうでもなく前に進む後ろ姿。それは本当にサラなのか、それともジェシーなのか、わからないままに。ただそこには、女性という性をもってしまった女という生き物が、目の前に広がる果てのない乾きに彷徨い、途方に暮れている現実だけがあったのだった――
 ジェシーとは何者で、何の象徴だろうか。16歳にして、家を飛び出した彼女。両親については劇中では言及されないが、母親と父親の人物像について想像できる描写がある。ジェシーが屋敷のプールで語る、母親がジェシーという存在を「危ない子」と危険視したエピソード。それは同時に母親代わりとなり、ジェシーを泊め、行為に及ぼうとしたルビーとの関係性が父親の像を浮き彫りにする。ルビーが女性として宿を与えたのなら、男性として宿を与えたのは誰か。つまり、モーテルの宿主ハンクとなる。ハンクはジェシーへの禍々しい感情をもち、暴行を計画するが隣人の宿泊者が身代わりとなり、未遂に終わる。(おそらく、被害者の年齢とはジェシーがトラウマをもった過去の年齢と推測できる)同様にルビーは、死化粧の仕事先の女性をジェシーの代わりに、屍姦というかたちで発散している。
 ジェシーの過去。両親との断絶の原因は、ジェシーの父親が遂行しようとした近親相姦であり、母親の言葉とは、女としての嫉妬だと読み取れる。ジェシーが見る、ナイフを口に押し込まれる悪夢。男性器のメタファーがナイフという突き刺すためのものだからこそ、彼女が抱く父性を持つ者への嫌悪が、両親から逃れなければならなかった理由を想像させる。モデルというジェシーの夢の裏側には、思い出したくもない悪夢のような現実が背景にあるといえる。
 美の象徴、モデル。美の権化たるモデルは、劇中では自然の美を歪め、整えた者「整形」として表現されている。ジェシーは整形をしていない。生まれ持ったものだけを武器にオーディションを勝ち取る。だが、果たして「生まれ持った美」だけが彼女を起用した理由になるのだろうか。審査を務めた男性は成人だと見て取れるモデルには見向きもせず、ジェシーを一瞬で見据える。それは本能という無意識が「形を変えてしまった女性」とを嗅ぎ分け、選別しのだとわかる。
 オーディションあとの女性用トイレのシーン。オーディションに受からなかった女性が指を怪我したジェシーの血をすすろうとする。彼女が血を吸ってでも取り戻しいもの。それこそ、ルビー、サラ、ジジの三人がジェシーを食した動機の伏線となる。カメラマンの青年がジェシーと共に、彼女らと食事を介する場面で青臭い意見を投じるシーンがある。「外見ではなく、中身」だと。この言葉は皮肉なことに、中身を胃と解釈すれば、食す理由をあと押しするかたちにもなっている。
 劇中では、三角形と菱形が様々な構造物や背景として多数登場する。それは、処女たる造形の象徴であり、ルビー、サラ、ジジの三人が囲うものでもある。囲い中心にあるジェシー。ナイトクラブでの生贄がジェシーを指すことで、物語全体がどこに向かおうとしているのかも理解できる。ナイトクラブでの強烈なストロボの描写では、ジェシーの目が残像を残し、抜き取られるようにも表現されている。
 ジェシーの服装の移り変わりにも、彼女の変化と位置づけが読み取れる。彼女は当初、スカートだけを着用している。だが、オーディションに受かり、ランウェイの大舞台でトリを飾るシーンでは、こちら側は別人かと見間違うほど、どこにでもいそうなモデルの顔と錯覚する。実際、その大舞台のあとのジェシーは、垢抜けて派手ではあるが、神がかり的な雰囲気がなくなっている。流行に染まった着飾っただけの、平坦な美ともいえる。また、このとき、彼女の服装は初めてスカートではなく、二股のパンツを履いていることにより、変化の兆しを服装で明示される。
 服装の色の変化もジェシーの行く末を物語る。紫色のドレスに始まり、七色に移り変わる彼女が身にまとう色は、服装のほかにも金色の塗料や黒く変色した血を経て、すべての色を辿ることが描写される。そしてそれは、彼女自身が食されることによって、身にまとうことが決してない黒のパンツ姿で、サラの身体を通して完成される。すべての色を混ぜた、純粋無垢な白とは程遠い黒。ジェシーは色(経験)という多様性を身につけ、完璧な美を体現するサラという女性となる。取り戻すことができないはずの「処女性」を内に秘めて。
 美とは何か。美とは年齢や経験を重ねて、失いつづけるものだろうか。ラストシーンでの、枯渇した大地に臨む女性と暮れていく空。終わりのない美の探求の果てに汚され、醜く犠牲となったもの。屋敷の墓地で、魔術的な刺青を入れたルビーが着飾らない姿で誰かの墓の上で寝そべる。その周囲を淡いピンク色のバラの花が咲き乱れる。それは、ジェシーに恋したカメラマンの青年が贈った純粋なもの。そして、その確かな時間を信じきれずにジェシーが捨てたもの。淡いピンク色のバラの花束が美しかった二人の姿を蘇らせてくれる。美とは何か。美とは表面的なものだろうか。いいや、きっと、美とは、美しさとは、夢に恋するその姿であり、誰かを愛する時間そのものなのだ。

※補足1
 カメラマンの青年がジェシーに贈った淡いピンク色のバラ。愛と美の象徴とされるバラには、古くから想い人へ気持ちを伝える花として用いられてきた。また、バラの花言葉には、「愛」「美」という意味があり、花の色によって花言葉が変わる。ピンク色のバラには、「Grace(しとやか、上品)」「Gratitude(感謝)」そして、ジェシーが自らの手で拒絶した、選択できたはずのもう1つの生き方「Happiness(幸福)」も含まれている。
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