まりぃくりすてぃ

サンタクロースになった少年のまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

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ニコラスの幼年時代の健気な寡黙さに、涙じわじわ。心を洗われた。
(孤児引き取りに最初に名乗り上げた若夫婦の)ハンヌス役のミッコ・レッピランピがかっこよかった♪ ハンヌスの出番がもっとあるかと期待しちゃった。

スポ根な修行時代は「過労死しないで」と心配した。

デリバリー時代は「なぜそこまで無私になれるの? 欲望ないの? 独りが淋しくないの? あの大好きな聖フランシス映画『ブラザーサン・シスタームーン』にさえ、主人公の放蕩歴や葛藤や躓きが散りばめられてたのに……」と目まん丸にさせられた。
ずっと前、藪松の店主がTVで「(ガス代払えなくなって新聞配達してまで)なぜ百円ラーメンにこだわるのですか? ちょっとぐらい値上げすれば?」とインタビューされて「私は、人にたくさん迷惑をかけてきたから。本当は生きてちゃいけない人間なんです」と泣きながら答えてて、スタジオの人が「この人、よっぽど悪いことしたんでしょうね」と笑いを取ってたね。
ゼロ円オモチャにこだわるニコラスが眩しかった。

フィンランドの子供たちの心に愛と善を植えるオーロラ輝くフィクションでした。。。。。



◇Xマスケーキの想い出◇

私が東京を離れていた大学三年の時、実家の父の癌が発覚した。父は「就職活動の時に片親だと女の子は不利だから、何としても生き延びる」みたいなことを私のために言ってくれた。私は心が縮みかけながらも就活や残りの勉学を頑張った。
その後、父は急速に絶望的病状に。いろいろ考えて骨髄移植を見合わせた結果、余命数年がいつのまにか一年という話になった。
背の高い、芸術全般や冗談やキリストの神様が好きな父は、私をほとんど叱りつけたことがなく、いつも優しかったけれど、(すぐ私をぶっ叩く母と違って)あまり私に正面から向き合ってくれた感じがしていなかった。高校時代とかに両親にとても心配かけた私は、親孝行らしいことをまだ全然していなかった。
父の最後の誕生日になるかもしれない年の、ある月に私はわざわざ上京し、実家近くのケーキ屋にフルオーダーメイドケーキの相談に行った。クルミ好きだった父のために、クルミをたっぷり使ったケーキを特別に作ってもらおうと思ったのだ。父がまだ物を食べられるうちに。
奥の喫茶室でコーヒー出してもらってじっくり相談。父の闘病のことを言った上で。クルミに合うのはチョコクリーム、と提案され、甘ったるくない大人向けの感じにしてほしいとか、値段はどれだけ高くなってもいいとか、プレートの文面や飾りとか、いろんな注文をした。
そして当日、親戚も呼んで実家で父の誕生祝い。父は何とかソファーに座れて、喜んでくれた。私は父に、「来年はまた違う特製ケーキ注文するから、楽しみにしててね。再来年もね」とソファーに並んで話しかけた。
皆でワイワイする中、数十秒後に父をひょいと見たら、父は涙ぐんでいた。私は父が泣いている姿を人生で初めて見た。
その晩、父は私に「ありがとう。頑張って病気治すから」と言ってくれた。病状悪化してから初めてそう言ったのだった。もう決して治らないとみんなわかっていたのに。

それから何カ月か経ち、12月に父は亡くなった。
東京に駆けつけて私はそのまま家族と年を越すことに。父の死後、母は落ち込み激しくて寝こんでしまい、兄は兄で忙しく、家族を代表して私が、手続きとかのために病院に行った。何度も父を見舞った病院だった。
空が真っ青で、わりと暖かかった。病院の近くに、見慣れた林があった。空にも、風にも、木々にも、父の魂が今いる、という気持ちになった。生前の父とは本気で向かい合うことができなかったそのぶん、父に初めて本当に包まれているような気がした。空には雲一つなかった。

年末にとてもバタバタした中で、クリスマスが来た。友達とか男の人とかと過ごすなんていう動きは考えられず、当然のように私は家族三人だけでひっそりと24日を迎えることにした。ケーキの予約注文なんてしておらず、そもそもクリスマスを祝うつもりもなくて、当日の朝に「どうしようか……」「やっぱチキンとケーキぐらいは食べようか……」となった。
予約なしではケーキらしいケーキは買えないみたいだから、母と私と二人でケーキを手作りすることにした。
天然酵母パン屋で美味しいメープルラウンドを買ってきて、それを輪切りにし、ラム酒とか蜜とかを染み込ませた上に、自分らで泡立てた生クリームをたっぷり乗せる算段だったけど、電動泡立て器がなくて久々に手作業で。氷が足りなくて、なかなか上手く泡立てられずに二人で苦労。キッチン床に生クリームがどんどん跳ね散った。
やっとそれらしき重たそうな不格好なクリームがホイップできて、それを贅沢にすごい量それぞれのメープルラウンドにかけて、缶詰のチェリーとブルーベリーとロウソクとサンタオーナメント(たまたま持ってた)を乗せて、買い出しから戻った兄も加わって、皿ケーキ持って撮影に熱中したりした。
記念撮影後、いただきますしようとしたら、次々にケーキが重力と揺れで崩壊し、皿上が大変なことに! 食べる前にメチャクチャになってしまった。それを見て三人とも、大笑い!
父の死後、ほとんど笑うことがなかった母と私と兄が、グチャグチャケーキに心底笑わされたのだった。
お蔭で、そこからは三人だけの楽しいクリスマスになった。いや、父の大きな遺影とともに。一緒にいろいろ歌った。

そんな手作り雪崩ケーキと、父の誕生日ケーキ。どちらも、すばらしい美味しさだった。
やがて、家族三人は父の死のショックから徐々に立ち直っていった。

翌春に、東京に戻ってきて社会人になった私は、さらに半年以上も経って、あのクルミチョコケーキを作ってくれたケーキ屋に、何か買いに行った。フルオーダーの相談をあの時に受けてくれた店長格の店員と「お久しぶりです」みたいに挨拶交わしたら、「ご病気のお父様のバースデイケーキ、いかがでしたか? うちの職人が『ちゃんと満足していただけただろうか』って、ずっと気にしてたので」と言われた。
私は、ハッとなった。こっちは一時の客の意識しかなかったし、遠くに私は住んでたから、あのケーキを用意してくれたケーキ屋さんたちのことなんて頭になかったのだ。
私はケーキがとてもとても美味しくて父も皆も大喜びしていたことや、父が年末に亡くなったことを、感謝こめて報告した。
本当は、誕生会の後すぐお礼の電話か手紙でもあげればよかったのにな、と反省しながらだった。それとともに、病の父や私たちのことをずっと気にかけてくれている人がこんなところにいたんだ、と知って、心が温まった。
いろんな人に支えられて私たちは生きてるんだな、と思い知った。



長々と書いてしまったけど、、、
世界のみんなが、どうか幸せなクリスマスやお正月をこれから過ごせますように。。。。