海

海がきこえるの海のレビュー・感想・評価

海がきこえる(1993年製作の映画)
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日曜日の午前中、風があって、眠っているねこの毛をなぜている。陽が、えらんで射すのは人間よりねこだ。ねこは、光合成をするらしいから。そとから、鳥の声と、一時間に一回くらいの電車の音、踏切の音、住宅街のむこうをとおっている国道を、走る車のエンヂンのうなり。今、この瞬間に、わたしを苦しめるものが自分の内側以外にはどこにもない、むしろせかいは、目に見えないほどの広く深いふところで、わたしをつつんで隠そうとしているようです。ひらひらする鳥の影、ちらちらするふせたまつ毛。なんにもない、の中の感じ落としてはいけないもの。トランヂスターラヂオ、神社の、鳥居の真下。ひとが少ないと、科学が、よりすくなくて、時間が、よりゆっくりだ。(風と陽射しをたくわえたカーテンのにおい)空気は、澄んでいるから吸うている。ある程度の夜の灯りと、本物の季節のうつろい。洒落た喫茶店も、観光地の写真を撮るためのスポットも、きらいで、むしろ憎んでいるときさえある。わたしたちの居るべき場所は、わたしの居たい場所ではなかった。かわりに、ほっしているこの海もこの夜もこの空気も、街で感じることはできない。ただ、それを学ぶために、街に出るのも大切であって、なによりも、ひとりになりたいときに一番知るべきなのは、この世にくらしている人間の多さだ。かしこいひとの多さ、馬鹿なことばの多さ、生きたいひとの多さ、死にたい夜の多さ。星がよくみえる夜が好き。ネオンサインであふれかえる街の夜も好き。うそつきはどっちだ。街か、町か。どっちでもなくて、うそつきなのは、わたしたちだけだ。わたしはいま、自分の心の表面と、もっと深いところまで解いて、じぶんのことをわかりたい。日曜日の午後、夕方になる時間まで、ふくらむカーテンの横でパズルをする、島根の博物館で買ったコップ(うん、いつもねこがコップの水をねだるときにつかっているコップ。)の中に、烏龍茶がある。起きてきた、ねこの肉球が、パズルの完成した部分をふむ。きゅむ。あいくるしい音をたてる。また眠りに、ゆかへ降りる。ぱつん。(永遠の眠りからさめた、猫のからだのぬくさ)はずれかけたピースが浮いている。愛するすべてにききたい。わたしたちが出会えることの奇跡を考えたことがあるか。もしも、出会っていなければ、いまごろ自分がなにをしていてどんな風貌でいるか、想像することができるか。わたし。あなた。わたしたちみんな。ひとりで生きているわけがありません。あなたのことを、わかった気になれたあの一瞬、世界で一番あなたを愛せるのはわたしだったにちがいない。おもいあがりましょう、見栄っ張りなつめたさであなたを傷つけるより、そのほうがいい。いつか海辺で電話をかけて、あなたに海をきかせたい。
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