河

掟によっての河のレビュー・感想・評価

掟によって(1926年製作の映画)
4.8
ゴールドラッシュによって大陸の果てのような海に囲まれた場所に辿り着き、定住した5人。そのうちの1人はアイルランド人であり召使い、労働者として、他の4人の住む古屋とは離れたテントで犬と共に暮らしている。その男が金を見つけるが、他の4人はその男を引き続き召使いとして自分達とは下の存在のように扱い、自分達で金を掘り続ける。

そして冬になり、さらに春が訪れつつある中、召使いがライフルを持って小屋に入り2人を銃殺する。召使いの発砲によって突如張り詰める緊張、その男を殴り殺そうとする動きが、発砲による惨状、沸騰し続けるヤカン、撃たれて突っ伏す男によって傾けられる皿、そこから血のように滴り落ちるスープとモンタージュされる。そして召使いが死んだかのように見え、静寂が訪れた瞬間にその皿が床へと落下する。銃声と悲鳴、そして緊張の張り詰めた中での静寂が聴こえてくるようなショットとモンタージュ。

召使いの表情は冒頭とは全く違うものとなっていて、目が常に見開かれている。生き残ったのはイギリス人の夫婦であり、妻はその召使いの目を見たときに、夫は召使いを殴り殺そうとした時に同じように目を見開いた表情へと変わる。その変化と伴って、雲が動き嵐が訪れる。激しい雨によって小屋の中と外が分断されたように映る。夫婦によって死体が運ばれる中、召使いは水を得るため、脱出するために小屋から打ち付ける雨の中へと身を投げ出す。生きるために雨の中へと出るが、そのまま力尽きて倒れてしまう。

その嵐によって、冒頭では静かに見えた海が水かさを増し小屋は陸の孤島となる。感情の狂気的な高まりを象徴していたような嵐は静かに周囲を蝕み孤立させるような海へと置き換えられる。妻はそれを反映するように、孤独に内側へと狂気を溜め込んでいく。海に周囲を囲まれた中で妻が1人座り込むショットがそれを象徴するように挟まれる。

妻は召使いを目を見開いた形で恐怖するように見下ろす。流氷が割れ、水かさがより増していき遂に小屋の中へと海が浸食し始める。それに気づいたときの妻の目は召使いに対するものの反復となっており、召使い、そして海への狂気的な恐怖が重ねられる。

その後、妻は小屋の床に満ちた水によって天井に反射する美しい光を見る。夫は召使いを殺すことを望み、プロテスタントである妻は法によって裁くことを望んでいる。妻がそれを召使いに話すとき、妻は召使いを見上げる形となっている。その見上げる目は恐怖によって見下ろす目とは対照的に置かれていて、何か光の反射を通して啓示を受けたようにも、それによって召使いに対する恐怖ではない優しさのような感情を得たようにも見える。

そして、再度流氷が割れそれが小屋でのボヤと爆発、そして夫の召使いへの衝動的な殺意へと繋がるが、夫は妻によって止められる。妻は召使いを殺すことと法で裁くことの間で揺れ動く。自身の誕生日に、夫に剃刀を渡し召使いの髭を剃らせる。夫がその剃刀によって召使いを殺すことを恐れつつも期待しているように見える。その心境が海に囲まれた中で1人座り込む妻のショットの反復によって表される。これまで殺意を妻に止められてきた夫はここで自分の意思で踏みとどまる。それに対して、妻の前には聖書とライフルが並べて置かれており、妻は見下ろし、そして見上げる。妻が殺すことと裁くことの間で揺れ動いていることが象徴される。

そして夫婦は召使いが殺した理由を聞く。ここで、召使いが母に金を持って帰ることを夢見ていたことが話される。ここで、召使いはもはや海と重ねられる存在ではなく、冒頭の人間的な姿に戻っている。そして、それを表すように冒頭以降出てこなかった犬が象徴的に現れ召使いにすりよっていく。

しかし、法を司る存在はどれだけ経っても現れず、夫婦は自分達で裁判を行うことを決める。それはイギリスの法に乗っ取った裁判であり、イギリス女王のポスターが飾られる。イギリス人の2人がアイルランド人の召使いを強制的に裁くことは、アイルランドがイギリス、その女王に強制的に統治されていることと重ね合わされる。2人は召使いと人間的な繋がりを得たように見えたが、その裁判を行うことで自分達が支配していることに自覚的になり、冒頭と同じ主従関係に戻る。

裁判の結果は死刑であり、妻は揺れ動いていた二つを両立する形、聖書・法の元に召使いを殺すことができるようになる。絞首刑の実行中、妻はその召使いへの狂気的な恐怖と人間的な視線、そして人を殺すことと聖書の間で何度も引き裂かれる。殺しが正当であることを自分に納得させるように、何度も聖書・法に乗っ取っていることを認識し、その分裂から身を守ろうとする。

絞首刑の後、妻は銃殺後の召使いの目を見た時と同じ目、見開いて見下ろす目をしている。妻は絞首刑によって銃殺の後の状態へと戻っている。そこに、再びその狂気的な恐怖の対象である水が小屋へと流れ込み、殺したはずの召使いが現れる。召使いもまた、嵐や海など、水と同化した存在へと戻っている。

召使いは2人に金を投げつけて去っていく。イギリス女王のポスターが映され、それと対比的に雨の中歩いていく召使いが映される。それは殺してもなお強迫観念的な恐怖を持ち続けている夫婦の生み出した幻覚なのかもしれない。

夫婦2人を既存権力として、支配下にある人間によってそれが崩されるかもしれないという恐怖、それに伴いその人間を殺そうとする強迫観念めいた感情についての映画であるように思う。その強迫観念は法・理念を守らなくてはいけないという感情との葛藤を生み出すが、その殺そうとする欲求は法・理念を捻じ曲げることによって正当化され、実現される。

それに対して、支配下にある側の人間は恐怖の対象として海や嵐のような自然と重ね合わされる。しかし、その人間は本来その自然と調和的に生きてきた存在である。既存権力はその人間を殺したとしても、その強迫観念的な恐怖から逃れることはできない。その人間は自身を恐怖し除外しようとする既存権力に対して、金を投げつけ自身の世界、自然の世界へと去っていく。

ゴダールは『さらば、愛の言葉よ』でジャック・ロンドンを中心に据えていたが、そのジャック・ロンドンの『The Unexpected』という話を原作とした映画らしい。自然主義の作家として知られているらしく、共産主義的な話でもありつつそれだけに止まらない話となっている。

この監督の『ウェスト氏』のウェスト氏が追い込まれていくシークエンスの発展のような映画となっているように思う。この監督のこの映画までの作品はスラップスティックコメディがベースで、さらに部分部分で全く違う実験をしている、部分的に凄まじいショットやモンタージュがある一方で全体的に見ればちぐはぐな印象があった。それに対して、この映画は全体として統一感がありさらにそのスラップスティック的な要素、アメリカ映画の模倣的な要素がほとんどなくなっている。

モチーフで語るというよりそのモチーフの含まれたショットの印象によって語る映画で、そのショット自体に霊感のようなものが漲っていて、黙示録的な絞首刑のシークエンスはドライヤーやブレッソンと共通するものを感じる。というかショットが全部めちゃくちゃにかっこいい。超自然的な何かが存在しているような自然の撮り方はムルナウやフラハティ、エプスタインとも共通するように思う。目の撮り方が印象的な監督だと思っていたけど、この映画を見て目を重要な映像的な要素と考えている監督なんだと感じた。

クレショフ効果で有名な監督で、確かに表情とその他シチュエーションのモンタージュによる感情の想起という基本的な部分はこの映画にも通底しているように思う。ただ、その表情をどうとるか、何を取るか、役者をどう動かすか、そしてそこにモンタージュされるショットをどのようにとるかなど、そこをスタート地点として発展、進化させていっているように思う。その一つの到達点として、この映画のこの存在自体を揺るがすような超自然な何かを映すこと、そしてそれに対する実存的不安のような極限的で多層的な感情の想起することがあるように感じる。
河